Thursday, June 29, 2017

Reykjyavik Meeting



"in a step-by-step process, each step of which makes us safer."
「段階を踏んでいくことで、その一歩一歩が、私たちの世界をより安全にしていくのだから。」


The Nuclear Security Project Former “Cold Warriors” Offer a New Vision
冷戦期の戦士たちは、実は核安全保障における「新しいヴィジョン」についてすでに語っていた。


On 11-12 October 1986, an historic summit meeting was held in Reykjyavik, Iceland, between US president Ronald Reagan, accompanied by Secretary of State George Shultz, and USSR general secretary Mikhail Georbachev, accoumpanied by Minister of Foreign Affairs Eduard Shevarnadze.
19861011日―12日、アイスランドのレイキャビックにて、米ロ首脳会談が行われた。
その場にいたのが、レーガン元大統領、シュルツ元国務長官(米側)とゴルバチョフ元大統領、エドワード・シュワルナゼ元外相(ソビエト側)であった。

Remarkably, they discussed dismantling all of their nuclear weapons, an agreement Reagan and Gorbachev both wanted but were unable to reach.
実は驚くことに、その席で「世界の全核兵器廃絶」について語られたのだ。
米ソ両首脳はそれを望んでいた。
しかし合意にはいたらなかった。

On their return to Washington, Reagan and Shultz were harshly criticized for even discussing the elimination of nuclear weapons.
その帰国途上、レーガン元大統領とシュルツ元国務長官は、「核廃絶」について口に出すのも(まわりに)厳しく非難されたのではあるが・・。

But notwithstanding these criticisms, George Shultz understood very clearly the positive significance of Reykjavik and continued to work to contain the transcendental danger of the world nuclear arsenals.
けれども、そのような批判にも関わらず、シュルツ元国務長官は、1986年に行われた「レイキャビック会合」を、その後も非常に前向きにとらえ続けてきた。
これら、あまりにも「人間の想像を絶する兵器・核兵器」というものの「超越的な危険性」を彼は訴え続けてきたのである。

Nearly twenty years later, Shultz reflected that the Reykjavik Summit was a uniquely important moment in history and deserving of commemoration.
20年が経過しても、シュルツ氏は「レイキャビック会合」は、歴史において一種独特の重要性があり、記憶に残すべきものだと振り返る。


He discussed this with Stanford physicist Sid Drell, who suggested hosting a seminar at Stanford’s Hoover Institute to revisit the Reykyavik Summit on the day of its twentieth anniversary.
シュルツ氏は、スタンフォード大物理学教授のシド・ドレル氏とも(レイキャビック会合について)話し合いを持ち、その意味をもう一度問い直すセミナーを、20年を記念する日に、スタンフォード・フーバー校にて開催した。

In 1986, complete nuclear disarmament was remained bad idea, but majorities of the attendees thought it should be re-examine from the view of humanistic importance of establishing oughts.
1986年時点では、「核廃絶」はいまだ悪い冗談のように思われたが、(20年後の)そのセミナーに参加した人々の中では、大義(oughts)として「人道的見地」から「核廃絶の重要性」を再度検証すべきとの意見が大勢を占めたのだ。

Max Kampelmen, the veteran American diplomat, stressed that and he drew an analogy to “the Declaration of Independence… all men are created equal.”
退役軍人であり、外交官であるマックス・キャンペルマン氏は、「人間は生まれながらにして平等である」という「米独立宣言」の文言を引用し、「核兵器の非人道性」を(そこで)語った。

Any meaningful success had to be at an international level.
(核廃絶ともなると)、意味のある成功過程は国際レベルでなされなければならない。

Unless the international efforts were tied to eventually reaching a goal of zero, and that it was paramount to have that vision as the propelling force.
世界が手をとりあって努力しなくては、核兵器ゼロのゴールまでたどり着けない
そのために要する努力は、もっとも高い山の山頂をめざすごとくなのだから。

I was more impressed by Max Kampelman's oughts than I was by the arguments of traditional arms controllers.
(けれども)マックス・キャンペルマンがそのとき語った「(人道的)大義」というものに、通常の兵器関係者の誰より魅了されたのは、この「私自身」だった。

Encouraged by the substance and momentum of the meeting, George Shultz, Sid Drell, Sam Nunn, and I agreed that we should schedule a follow-on meeting for the next anniversary of Reykjavik.
「核廃絶」という、タイミングよく出てきたその内容に励まされ、ジョージ・シュルツ氏、シド・ドレル氏、サム・ナン氏と私は、次の年のレイキャビック会合記念日のスケジュールを組んだ。


In the interim, we decided to write an op-ed that would call the world’s attention to the great dangers posed by nuclear weapons, call for increased urgency in taking steps to reduce those dangers, and advocate that we begin moving toward a world without nuclear weapons
(そしてそこで)私たちは、世界に、核兵器がどれだけの危険と脅威を人類に与えているのか、どれだけその危険が差し迫っているものであるのか、ということを社会喚起するため、その議論を擁護し、「核廃絶」へ向けて動き出したのである。

After an invitation from George, Henry Kissinger joined our group and Sid volunteered to leave his name off the article to ensure that it would be seen as nonpartisan.
シュルツ氏がキッシンジャー氏を加え、私たちのグル―プと、シドは自発的に自分の名前を「党に属さないもの」とわかるようにして出すことにした。

George submitted this fateful op-ed to the Wall Street Journal in January 2007.
そして、ジョージ・シュルツ氏が、2007年のウオール・ストリート・ジャーナル誌1月号に、その運命の内容を「全面記事」として載せたのである。

More realistic approach was to proceed step by step to reduce the dangers of nuclear arsenals, and to clearly articulate why we believed this and how to go about doing so.
より現実的な核兵器削減のアプローチは、「段階を踏んだもの」であるべきで、確実に少しずつにでも前へすすめていくものである。

As Sam Nunn has described so effectively, we were at a base camp not even hallway up a mountain and saw our goal as reaching the top of the mountain, which was obscured by haze.
サム・ナン氏がうまく「山登り」にたとえたのだが、私たちはベースキャンプにおり、まだ山頂まで半ばであるが、ゴールの山頂はすでに視界にははいっている。霞でぼけてしまいそうになりながら。

We could only proceed step by step, understanding that it would be a long, difficult journey, but knowing that each step up would make our world safer, even if we never reached the top.
けれども、一歩一歩なら前進していける。長い道のり、困難な旅であっても、確実に一歩ずつ踏み出していけば、とても山頂まで登りきれないようにみえても、世界はより安全になれるのだから。

During the 2008 presidential elections, Senator McCain and Senator Obama both spoke in support of Ronald Reagan’s vision of a world without nuclear weapons.
2008年の大統領選挙では、マケイン候補とオバマ候補が、レーガン元大統領の「核なき世界」のビジョンを支持していた。

Then in 2009, barely ten weeks after he was inaugurated, President Obama delivered a speech in Prague that included the now-famous line :”I state clearly and with conviction the commitment of the United States to seek the peace and security of a world without nuclear weapons.”

The crowd in Prague roared its approval.
プラハの市民は、そのスピーチに大きな拍手と歓声を送った。

Watching the speech at home on my television, I was overcome with emotion.
そのスピーチを自宅のテレビで見ながら、私は感情に圧倒されそうになった。

Could this really be happening?
これは「現実」なのか?

Since then I have often replayed a recording of this speech, deeply moved each time.
それ以来、何度もこのスピーチを流し、流すたびに心を動かし、「その言葉」をかみしめ深く感動することになった。

Indeed, we believe that the practical steps we propose to lower nuclear dangers will not gain full international support unless they are attached to a vision of ultimately eliminating nuclear weapons; likewise, believe that this vision will never be achieved in one grand move, but in a step-by-step process, each step of which makes us safer.
実際、現実的な段階を踏みながら、核の危機を軽減することは、そのビジョンの最終ゴールが「核全廃」というものに通じていなければ、国際的な全面支持をなかなか得られないものである。
(けれども)「核全廃」をひとっ飛びに達成できるとは(現実派として)全く考えていない。段階を踏んでいくことで、その一歩一歩が、私たちの世界をより安全にしていくのだから。
President Obama's Hiroshima Speech (May 27,2016) / To ponder the power of splitting of an atom

Nuclear Threats in a Chaotic World / 
ACA Boardchair on way to Nuke Free World in Nagasaki(2018)

Wednesday, June 21, 2017

核兵器禁止条約 イベント会議
広島・被爆者田中さん
「核兵器禁止を訴えるのは生き残ったものの務め」
“Urging to Prohibit Nuke is the Responsibility for A-bombed Survivor”
Ms.Tanaka said in NY

中国新聞 2017621

広島市東区の被爆者、田中稔子さん(78)19日、米ニューヨークの国連本部であった非政府組織(NGO)主催のイベントで72年前の体験を語った。
Ms.Tanaka talked about her own Hibaku Story at an Event Conference which was organized by NGO in NY UN

同法部で「核兵器禁止条約」の制定交渉会議が続く中
「条約締結へ、多くの国の支援を」と呼びかけた。

田中さんは、被爆者が世界各地で証言するNGOピースボート(東京)の船旅に4月から参加し、今回の会議に合わせニューヨーク入り。
6歳で被爆する前に幼稚園に通った広島市の旧中島地区(現中区の平和記念公園)は壊滅し、同級生の命が奪われたと言い、
When Ms.Tanaka was 6 years old, Hirohima was A-bombed, and everything around her were devastated, and her friends in kindergarten were died.

「禁止条約実現への訴えは、原爆から生き残ったものの務め」と力を込めた。
To pursue the responsibility to prohibit Nuke Bombs are survivors role.

各国の反核団体のメンバーらが聞き入った。

一方、交渉会議は同日、核保有国が条約に加盟する道筋を巡る議論に入った。

南アフリカが、核兵器を持ったままで参加を認める代わりに期限を設けた廃絶義務を課すという修正案を提示。

「核の傘」に頼る非保有国の加盟へも同様に依存脱却の期限を課せるような内容も含み、メキシコなどが前向きに応じた。

NGP枠で発言した長崎原爆病院の朝長名誉委員長(74) は、保有国や日本の参加を促した。

日本被団協の和田事務局次長(73)は、草案前文での被爆者への言及を歓迎し
た。

Sunday, June 18, 2017

hibakusha appeal ” are presented
to UN disarmament conf. top of TPNW
被爆者国際署名「2963889人」ぶん 交渉会議議長に提出

中国新聞 2017718

Signature Ceremony of TPNW
This might be the last", said Mr. Taniguchi 


「核兵器禁止条約」の制定交渉会議に合わせ、米ニューヨークを訪れている広島、長崎の被爆者が16日、「ヒバクシャ国際署名」2963889人分の目録を国連本部でホワイト議長(コスタリカ)に届けた。

核兵器を禁止し、廃絶する条約の締結を全ての国に求める署名は、日本被団協の提唱で昨年春に始まった。

日本被団協から派遣された和田征子事務局次長73 横浜市鶴見区)が、今月上旬分までを集計した目録を手渡すと、受け取ったホワイト議長は
「とても感動的だ。核兵器の犠牲者の苦しみが軍縮の努力の原点であるべきだと思い起こさせてくれた」と歓迎した。

広島県被団協(坪井直理事長)のみまき智之副理事長(75)は、折鶴柄のバッジをホワイト議長へ送り、早速上着につけてもらった。

原爆ドーム(広島市中区)近くの街頭署名活動に立ったみまき副理事長は
「署名が核兵器の禁止、廃絶へ力になっていると実感した。広島の市民や首長の署名をさらに広げたい」

核兵器廃絶条約交渉会議 (2017年6月15日―7月7日)

           
松井Matsui's市長演説Speech 15日
In first, Hiroshima city mayor Matsui says,
“hibakusha have kept urging nuke abolition for long time based on their deep humanistic beliefs through their direct experiences.

On behalf of them, I hope this law will enter into force in this conference, 
so that their desire could come true on this July 7th, 2017.

米ニューヨークの国連本部で開かれている「核兵器禁止条約」の第2回制定交渉会議は2日目の16日、各国政府が禁止事項の議論に入った。



「使用の威嚇」はインドネシア、フィリピンなどが「核抑止に頼る安全保障の否定になる」などとして提案。
これに対し、スイスは草案の禁止事項で威嚇できなくなるとの意見を示し、明示は不要とした。
関係国際機関として議論に加わる赤十字国際委員会(ICRC)は、使用の「軍事的準備」という表現で記す案を示した。

ほかの禁止事項では、既存の包括的核実験禁止条約(CTBT未発行)に沿って「爆発を伴う」核実験の禁止を明記している点に関し、キューバなどが臨界前核実験を含めるよう訴えた。

エクアドルなどは核兵器に関わる「融資」を加えるよう求めたが、スウエーデンが核の平和利用に関わる企業活動への過度な影響を懸念した。

禁止事項に先立つ前文の後半部分の議論では、アイルランドが軍縮教育の重要性を入れるよう提案。
フィージーなどが賛成した。

議場では、平和首長会議(会長・松井一実市長)が、不参加の米ロ英仏中が核軍縮に取り組むよう願い、5か国の席に折り鶴を置いている。


また、渡米中の広島市の松井市長はこの日、条約を推進するオーストリアのハイノツイ駐ジュネーブ国際機関代表部大使と会談し、条約の実効性向上を要請した。


21日、核保有国が条約に加盟する道筋を巡る議論に入った。

南アフリカが、核兵器を持ったままで参加を認める代わりに期限をもうけた廃絶義務を課すという修正案を提示。

「核の傘」に頼る非保有国の加盟へも同様に依存脱却の期限を課せるような内容も含み、メキシコなどが前向きに応じた。

NGP枠で発言した長崎原爆病院の朝長名誉委員長(74) は、保有国や日本の参加を促した。

日本被団協の和田事務局次長(73)は、草案前文での被爆者への言及を歓迎した。


成立式典20179.21 発行(2021.1.22)
Nuclear and the Humankind cannot Co-exist Nuclear Victims Forum  / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden  

Saturday, June 17, 2017








"hibakusha" Testimonies 









Miyoko Matubara
                  松原 美代子






上田 満子

篠田 恵










松井広島市長が演説
「深い人道的信念」訴え
Hiroshima Mayor Matsui made his 7 min. speech in UN

中国新聞 2017617

核兵器禁止条約(TPNW)

広島市の松井一実市長は15日、「核兵器禁止条約」の制定に向けた国連本部での第2回交渉会議で演説した。


被爆者が
「深い人道的信念」から核兵器廃絶を訴えてきたと伝え、会期末の77日までに条約成案を採択するよう求めた。
In first, Hiroshima city mayor Matsui says,
hibakusha have kept urging 'nuke abolition' for long time based on their deep humanistic beliefs through their direct experiences. 
On behalf of them, I hope this law will enter into force in this conference, so that their desire could  come true on this July 7th."

平和首長会議の会長を務める松井市長は非政府組織(NGO)の枠で約7分発言した。

被爆者が
「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」
と世界にメッセージを発し続けてきたとし、
「存命のうちに核兵器の禁止を見届けたいと願っている」と強調。

先月公表された条約草案がその苦しみや願いを受け止めている、と歓迎した。

さらに条約草案には、核保有国の加盟につながる工夫があると指摘.

「核兵器に関する既存の法的規制を強化、徹底する禁止条約となるよう建設的でオープンな議論を」
と求めた。


不参加の保有国の指導者へも、軍縮での指導力発揮を迫った。

Nuclear and the Humankind cannot Co-exist Nuclear Victims Forum  / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden 


Saturday, June 10, 2017

広島原爆死没者記帳 始まる
For this year's Hiroshima Memorial, Registering Names Starts 

中国新聞 2017610

広島市は9日、原爆死没者名簿の記帳を始めた。
昨年86日以降に亡くなったか、死亡を確認した被爆者の名前を書き加え、今年の86日に平和記念公園(中区)で営む平和記念式典で原爆慰霊碑に納める

市が今月8日までに把握した広島原爆の新たな死没者は2745人。
According to Hiroshima City  government, until this June 8th, the numbers newly registered as people who died because of A-bomb  this year, accounts for 2,745.

記帳を担当する、ともに元市職員で南区の被爆者、池亀和子さん(75)と中本信子さん(74)はこの日、市役所の一室で作業。

余白の残る110冊目と、真新しい111冊目の名簿を前に手を合わせて黙とうした後、死没者の名前や死亡年月日を筆で丁寧に記していった。

28回目の記帳となる池亀さんは
「死没者の皆さんの冥福を祈りながら、一日一日丁寧に記帳したい」、

17回目の中本さんは
「二度と原爆を使用してはならない、と多くの人に伝えていかなければ」と話した。

名簿には、昨年85日までに303195人を記帳
Until August 5th  last year. 303,195 names have been registered in total. 


別に、遺族が望んだ長崎原爆の被爆者9人分の1冊がある。
There is a separate note, in which, 9 Nagasaki A-bombed victims’ names are registered.That is also prayed in Hiroshima memorial, because their bereaved families wanted and agree.

市は今年85日まで記帳申請を受け付ける。



Friday, June 9, 2017

核廃絶に託した伝言
A message from Numata Suzuko-san

Hiroshima 広島 ヒロシマ ひろしま
                
2015年(平成27年)827

再会は、この世と天国を隔ててだった。
厳しい日差しが降り注ぐ中、傾斜がきつい階段を上る。
広島市の丘りょう部に広がるキリスト者の墓苑にたどり着く。
When I met Numata Suzuko-san last time was after her leaving to the heaven.
In the mid of severe sun shining day, I went up to the steep stone stairs on a mountain hill in Hiroshima.
There are graves for Christians.
Numata-san is now resting there.

この一角に、「戦を知らぬ世代に、命の大切さと平和の尊さを伝えるため、黙してはならない」と、死の直前まで被害のありのままを伝えた原爆の語り部が眠る。
While she was alive, she kept urging ‘Importance of Peace’ and persuading a lot of people that we should not be silent when people’s lives become to be treated lightly and easily gotten rid of. 
She had continued to tell people who don’t know the War.
 “What kind of terrible things will happen in the Wars.”
She kept being as a Testimony Teller of A-bombed until very close to her death.




爆心地から約1.4キロの旧広島通信局で被爆、建物の下敷きになり左足を切断した。
22歳の結婚前だった。
 When A-bombed, Numata-san was 1.4km away from the H.C., where Hiroshima telecommunication building was located.
Immediately after the bombing, the building  had been crushed and she was stuck under it.
Finally she could get outside, but later she had to have her left leg cut off due to the injury.
Numata-san was 22 years old then, and it was before her marriage. 

5年前(2010年)、老人ホームでお会いした。
対面中も横になっておられたが、平和のかけがえなさを説く口ぶりは、話せば話すほど、熱を帯びた。
5 years ago(2010), I met her when she was in a nursing home.
She was lying on the bed.
But once she started to talk about peace, she become full of energy for telling about it.

その折、「伝言」を託された。
原爆を落とした米国のオバマ大統領に宛ててだ。
「核廃絶を言ってくれたが、ここにきて、真実を知ってください。未来に生きる子供たちのために。」
Then she gave me a message.
It says,
“To President Obama, Please come to Hiroshima for children in the future.”
Because he had a famous speech in Prague one year before.

その1年あまり前、オバマ氏はプラハで演説した
「核を使用した唯一の国として行動への道義的責任がある。核兵器のない世界に向け、具体的な方法をとる」と。
沼田さんはその実現を念願し、ならば、オバマ氏に原爆被害の実相を理解してもらおうと、広島訪問を求めたのだ。
私はその想いを受け、2010818日、当時担当していた本紙夕刊のコラム「素粒子」に「伝言」を掲載した。
So I received her will and message, and I wrote about it in my column.

翌年3月の東日本大震災は、満身創痍だった沼田さんに、さらなる打撃を与えた。
福島原子力発電所の事故で、放射性物質が大量拡散したことに心を痛め、同年712日、87年の生涯を終えた
Next Year (2011), the Japanese Great Eastern Earthquake and Fukushima NPP's accident happened.
Three nuclear reactors have exploded and meltdowned one after another.
She knew huge amount of radiation spread took place as well.
That must have given her a big stress.
Next year, in 2012, Numata-san passed away on July 12th in her age of 87.
So the message Numata-san asked me was put off.

世界で一万5千発を超える核兵器の廃絶は、遅々として進まない。
それどころか、後退しているようにさえ見える。
オバマ氏がプラハで約束した包括的核実験禁止条約の批准は米議会内に根強い反対があり、滞ったままだ。
同じ核大国のロシアは、今年3月プーチン大統領がクリミア危機に際し、「核兵器の使用を準備した」と威迫してみせた。
その、約2か月後に米国であった核不拡散条約(NPT)の再検討会議は、最終文書が採択されずに決裂している。

広島・長崎の名前は知っていても、苦しみの強さと長さを正視できないから、我が事として考えられないのだろうか。

それでも変化の兆しもある。
広島・長崎の平和式典に、オバマ政権で核軍縮・不拡散政策を担うゴットメラー国務次官(Ms. Gottemoeller)やキャロラインケネディー駐日大使(Ambassador Kennedy)が参列した。
In 2015, Nuclear Disarmament and Non-Proliferation Specialist, Ms. Gottemoeller and Ambassador Kennedy  participated Hiroshima Memorial Ceremony.

来年5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に先立って、外相会合が広島市で開かれる。これに出席する可能性があるケリー米国務長官は、ケネディー氏らの参列に対し「誇りに思う」と評価した。

しかし大統領周辺には賛否両論ある。
20年ほど前、原爆投下を自省的に見ようとしたスミソニアン航空宇宙博物館の計画が、退役軍人や議会の反発で、広島、長崎の被爆資料の展示は排除されるなど大幅変更へ追い込まれた。
被爆地訪問は、米国の政治家の難所だ。

「それでもオバマさんが来られたら、私が原爆のことを話します。」
Then I met Shinoda-san.
She said to me, “So, I will tell him.”.

そう語るのは篠田恵さんだ。
沼田さんの高校教師時代の教え子で、自らも被爆者。
遺志を引き継ぎ、語り部として体験を伝え続けている。
父母は米国カリフォルニアで園芸業の会社を立ち上げ、4人の兄妹たちは米国で生まれ育ち、米国市民権も持っていた。
しかし、原爆は容赦なく、彼らゆかりの人々の命も奪った。
篠田さんも、爆心から2.8キロで被爆し、姉の一人が行方不明に。
2歳の弟は2か月後に亡くなった。
Numata-san was a teacher in the high school that Shinoda-san went to.
Shinoda-san also has an experience of A-bombed, and now telling her own story.
Actually her father and mother had started their business in California and 4 of her brothers and sisters were raised in U.S.
A-bomb dropping have sacrificed many lives indiscriminately, even
against those who had some relations and roots in United States.
Shinoda-san was 2.8km away from the hypocenter, and her elder sister become missing and younger brother had died 2 months later.


恩師、沼田さんの墓石には、「信」「望」「愛」の3文字が刻まれている。
「人の理性を信じ、核廃絶の望みを捨てず、敵をも愛し続けよ。」
篠田さんら後に続く人に呼びかけているように思えた。
Shinoda-san’s teacher, Numata-san’s Grave has Three Letters on its surface.
Belief ” “ Hope” and “ Love”.
Numata-san’s Soul seems to be still “Alive”.