Architectual Witnesses of Atomic Bombing
「広島第二県女二年西組、原爆で死んだ級友たち」
When you imagine what hibakusha experienced, facing unimaginable explosion & being survived after as a human being, you understand they were inevitably with max emotion & significantly experienced what Jung said "synchronicity" occurred everywhere in a very limited area with huge energy & emotions. In addition to that, you might notice human's emotional flows are parallel to energy flow of underground magma of our planet.
関千恵子著:筆者自身は前日、マスカットを食べ、体調を崩して建物疎開作業を休み、被ばくをまぬがれる。前日に体調不良などで被ばくを免れ、被爆死した友人たちのあてを探し回る人たちDNAsは、その文章が非常にうまいことに驚かされる。
歴史上、人間は「武器に対しては武器で守る」という思考を繰り返してきた。
Throughout his-stories, the humankind kept to consider "Ways to protect selves from weapons are Using weapons."
けれども「核兵器」に対して「核兵器」で人類を守ることはもはや不可能である。
However, in the case of nuclear weapons, such scenario can not be applied.
ではそれでは「(さもなくば核を使うぞ)という心理戦・威嚇戦、抑止力deterence」は使用できるのかeffective?
「10秒で数十万人口の都市を破壊する兵器」に対しては、今度は逆に、そこで起こった人間模様をつぶさに読んでいくことである。「瞬間破壊」という兵器に対抗し、人間を守っているのは「兵器」ではなく「(瞬間及び長期)情動」である。その基本は「他人をおもいやる気持ち、慈悲、共感、モラル」であることに、「ものがたり」をひとつ・ひとつあたっていけば、だんだんと理解できてくるだろう。
When you consider the weapons that destroy the city "with one button in one moment", on the contrary, you should take time & check out what really happened under the huge explosion. Certainly there were survived people, Why were they survived? You may find out there were deep emotional reasons beyond the time( not only one moment but also long time). To prevent the nuclear wars, to check out their true stories with deep emotion one by one is very important like Ms.Alexievichアレクシェービッチ says. Love, compassions & moral lights are not clearly seen, however persons who survived and to tell stories what happened, have enough such of lights. And those lights are as same as every mothers love, and only way to prevent further wars including Nuclear Wars.
富永千恵子 Chieko Tominaga(筆者 main writer)
被爆地:宇品Usina
(前日に食べたマスカットで下痢をし休んでいた being absent from work due to bad body condition)
ピカーっと青白い閃光が光った。はっと床の上に起き上がったところへ、轟音が響いた。
Saw a flash of light, woke up, and heard a huge sound.
天井板の一枚と、欄干がはずれ、私の頭上めがけて落ちてきた光景が、今でもまぶたに焼き付いている。次の瞬間、私は走り出していた。
Never forget the scene of the crushed ceilings falling down against me. Next moment, unconsciously I was running away.
気づくと、廊下のすみで台所から飛び出してきた母としっかり抱き合っていた。
I found out myself hugging tightly with my mother in the corner of the kitchen.
足元はうず高いガラスの破片、土砂の山々、すぐに歩くこともできないほどだった。幸いなことに、私も、母も、祖母も、かすり傷ひとつなかった。
Near my feet, there were mountain of crushed glasses and sands, so I couldn't move.
Fortunately my ground mother, my mother, and I had no injuries.
父がひざから血を出していた。
My father was bleeding on his knee due to a piece of glass stuck into there.
ゲートルの上にガラス片が当たったのだ。
Even he was wearing the gaiters...
裸同然の私が無傷で、一番重装備の父だけがけがをしたのは、皮肉なことだった。
We, almost with no protect, had no injury, but our father, well armed, was injured.. it was really ironic...
坂本節子(Setsuko Sakamoto)
被爆地:雑小場町(級友たちと一緒に建物疎開中)
壊滅的に破壊されている爆心地付近なのに、軽いやけどのみの負傷。
The place where Setsuko with her friend Machiko, was very close to
h.c. where almost nobody have been survived, however Setsuko was survived….
Only just got slight burnt, ….
人の流れに交じって右往左往するうちに、ふと、皆と反対方向に逃げる気になった。
While wondering with huge crowds, suddenly she thought to try to go to
the opposite direction.
「比治山橋」という名標が目にとまり、そこを目指す。
She saw a sign board, “Hiji Yama Bashi比治山橋“. Her friend & Setsuko decided to go there.
いっしょにいた友人、北小路満知子が重症なので、彼女を背負うことに。
Machiko was so heavily injured that Setsuko gave her a piggyback ride.
昼頃、比治山救護所にたどりつく。がすぐに「敵機襲来、山に逃げよ」とのアナウンス。
Around noon, they arrived at Hijiyama Evacuation Site.
However, there was an announcement that “An enemy’s airplane is coming!”.
もう一度逃げ、竹やぶで「吐く」。
Once again, they run away into a bush of bamboo trees. Setsuko vomited there….
救護所の人が防空壕に入れてくれる。
A person come close to them and got them into an air raid shelter.
ふいに顔をのぞかせた人が「仁保の人はいませんか」という。
There, someone asked them, “Anybody from Niho(仁保)?”
北小路が「そうだ」、と答えると、すぐに迎えを呼んでもらい、
担架にのせられて運ばれる北小路を送り出した。
Setsuko answered, "My friend Machiko is from Niho(仁保)!”
Those who were looking for Machiko come soon and they took her back to her home..
坂本自身は、放射能で一度髪が全部抜けたが、10月に学校が再開するまでにはある程度回復し、登校できるようになった。
Setsuko went back home by all herself….
For a while, she had suffered
from hair loss even though she recovered and could go back to school in October.
爆心地付近にありながら、北小路を背負い、自分自身を犠牲にしての献身が、自分自身を助けたともいえるかもしれない。
Even now Big Question.., why Setsuko was survived there….
The reason? Might she help her heavily injured friend even she also
injured?
.........................................................
不思議なことがある。
There is another thing I wonder…about Setsuko.
前年の2学期、長崎から転校してき、広島原爆で亡くなった、同じクラスの中村綾子の姉、
貢子の末娘が国泰寺中2年のとき、坂本(平田)節子に、習字を習ったことがあるときき、おやっと思っておどろいた。それを聞いた(平田)節子もおどろいた。
綾子と節子は席が隣同士だったとおもう。
One year before A-bombing, Ayako Nakamura moved from Nagasaki to our
class in Hiroshima. Ayako was died due to the bombing, but years later, a daughter of her elder sister coincidently
learnt calligraphy to Setsuko. Firstly both sides didn’t noticed.
But I noticed, so let them know & both sides become surprised. Because two of them were in the same class and Ayako & Setsuko were sitting next each other.
「平田先生は、いい先生でした。かわいがってもらって、、。」
と、思い出話はつきない。
“Setsuko was a nice teacher…I have a lot of memories about her…. May others not understand me…but….” Ayako's elder sister told me...
綾子の遺品を、全部焼いてしまったという。
「ひとさまにわかっていただけるか・・・」
と貢子はいったが、わたしは、すさまじいまでの愛をひしひしと感じた。
I really understood her as much as too hurt….
坂本(平田)氏は、核爆弾爆発がめがけてきた、ほぼ助かった人がいない地で、助かっている。
けがもそれほど重症でない。そういう場合、「他」はどのような印象を受けるだろうか?
その後も、坂本(平田)氏は、隣に座っていた小林さんとの「長崎・エン」も含め、
いろいろななところで「高エネルギー・エン」のつながりを、のちのち継続的にもっている・・・。
彼女が胃がんを発症するのは、著者の関(旧姓富永)氏が米国にいるときである。
この場合も、米国の地を踏んだ関氏との人間関係に注目し、そのことを聞いた関氏の情動が最大限動き、さらに心を働かせ動かして「文章を書く動機になった」のではないかと想像する。
印象を受けとめる「他」がいなくなったところで、
それぞれの個体は「ことばではなし、印象を残す」ことができなくなり、
福崎 Fukusaki(新人教諭 a teacher)
被爆地:三篠
下宿のおばさんが「ハイ」と差し出した茶碗には、真っ白な飯が持ってある。
“Here you are! “, Aunty of the lodge passed Fukusaki, a bowl of white rice.
目を丸くし、食糧難の中「銀シャリ」は飛び切りの豪華食である。
“What a surprise!”. In the middle of the war, white rice can’t be eaten easily.
「イやっ、福崎さん、わたしゃ考えました。」
と、おばさんは言った。
広島もいつやられるかわからない。
大事に食いつないでいても、焼かれてはおしまいだ。
Aunty says, “Fukusaki-san, I think, we don’t know when Hiroshima will be attacked. If I keep away this rice and burnt, it is no way for keeping.
考えを変えた。この際、一度うまい飯を腹いっぱい食べようと思って・・・。
So I changed my mind. I will eat white rice as much as I want and for others…”
「ほーっ!」"Wow!"
福崎が「銀シャリ」を噛みしめていた瞬間、While Fukusaki was eating white rice...
ピカリときた。Acute lightning...
茶碗が、空中高く舞ったのを覚えている。A rice-bowl flown away high in the sky...
次の瞬間、下宿はペシャンコになった。Next moment, the lodge was perished...
三篠町。爆心地から北に2キロ足らずである。
Misasa-machi, about 2 km away from h.c.
「一刻も早く学校へいかねば・・。」
“I have to go to my school immediately!”
どこをどうしていったか、さだかとは覚えていない。
Then Fukusaki didn’t remember how he went to his school very well…
Just remembering he swum across two rivers…
とにかく二つほど川を泳いで渡った。
Every river, there were full of dead bodies floating…
川には、あちらにも、こちらにも、死体が浮いている。
泳げないので死体を動かそうと、そっと触ると、死体の皮膚がずるっとむける・・。
They coming against him, so he touched softly, bodies' skins peeled off…
「助けてくれ!」と差し出された手をつかもうとすると、皮膚が向け落ち、あっというまに人が流されていく。
“Help me!”, heard somebody crying, so when he reached and hold his arm to that direction, just hold only skins and its body flew away…
修羅としかいいようのない状態の中を、夢中で広島市の東端を迂回し、宇品線の線路をたどって、昼過ぎに女専にいくことを考えた。
“What a hell…”
With all his might, he went to his school along to the street car line…
福崎は、元気のよい青年教師だったが、
Fukusaki was a young and very healthy teacher.
このあと、終戦となって、どうやって暮らし、何を食べたのかは、全く記憶にないという。
やたらと走り回っていた。
But he didn’t remember anything from August 6th to August 15th, the end of WWⅡ, even what he ate and how he lived….
6日のあと、福崎は、卒業生の池田美智子が、住吉町で大きな木の下敷きになり、助けを求めていると聞き、それっと駆け出すが、住吉町はすでに火の海、見当もつかず、逃げ出したが、来た道もわからなくなり、生命からがらであった・・・。
Just pieces of memories....
He heard one of his students were under the building in Sumiyoshi-machi, so immediately tried to run there, however, that place was already seas of fires. He didn’t remember how he survived in that hell very well still now….
福崎氏は、ボストンマラソンの選手をその後育てることになる。人間性というよりも、その動物的敏捷性がきわだつ。要はいい意味で「何も考えず、先に動いている」のである。にしても「その記憶がまったくない」ということは、あまりの残酷性は、それを受け止める器が大きくない人間の情動には残らないように自然の摂理上なっているのではないのだろうか?
また、福崎氏は「核爆発」がダイレクトに放射能を出し、放射線がまだ濃く残留している地域を何日も走り回っている。けれども「放射線障害」は全くでてない。
個人のDNA塩基配列を読むことはできないが(読めても変えることはできない・・)、その人がどういう「情動」で「個々のものがたり」を生きていくかは、「個々にちがう」。また、風の吹き方も「はかれない」。けれども人間の情動や意識が「風に対応」していたり、「月」の光かげんに対応したりするとかたる「ものがたり」はむかしから多いのである。
また、肥田先生は「医師として」、福崎氏は「教師として」、森沢氏は「事業者」としての「責務・モラル」が、「きのこ雲下の火の海へ」とその行動を向かわせている。各々が持っている職業倫理というものも相当に高いと思われる。普通の人にはなかなかできないことだろう。
加え、彼らのように情動力、慈悲力の高い個体と、そのまわりの人脈をよく読むと、最初の「核攻撃」だから「機密」の度合いも相当高いと思われるが、その「高さ」ゆへに「身辺のエンルギー値」がじわじわあがっているのがわかる。ふと、もはや「銀シャリ」を食べよう、、。マスカットを食べよう、、という行動につながっている。テニアンから飛行機はすでに立っているはずで「ヒロシマ」めがけていやがおうでも「人類の集合意識域」はあがっているはずである。であるならば、「核」という巨大兵器であることもあり、相当の人数の頭のなかが「それでいっぱい」ということは「「(底辺の「音」は)もはや鳴っている」のである。
本地文枝(Fumie Honchi)
被爆死亡地:第二県女物理室
茫然と立ち尽くしている私たちをかきわけるように、担架に死体は移され、
While standing without thinking anything,
運び出された。
Hon-chan's body was carried out...
その時だった。寝ていたかと思った石川清子が、突然叫んだのである。
At the same time, Kiyoko, looked sleeping, suddenly cried.
「本ちゃん、本ちゃん、どこ行くんね!」
"Hon-chan! Where are you going!?"
たまらなかった。
私たちは駆け出して、その場を離れ、廊下の隅でしばらく泣いていた。
We run out of the evacuation room, and cried aloud for a while....
逃げてきた人が、片端から死んでいく。
Alive bodies went to die one by one....
死んでしまうと、頭も身体も誰がみてもわからないくらいに焼け焦げている。
If they die, it is so difficult to find out who is who...because of serious burnt..
衣類も焼け落ち、裸同然ということも多い。
誰が誰だかわからない。
生きているうちに、名前を聞き、札を書き、身体につけた。
Some dead bodies had name cards by being asked for their names..
これで、生きている時には間に合わなかったが、遺体だけは見つかった人が多い。
There are many families and relatives who could find out their same families or relatives according to these cards...
死というのは、人間の非常に深いところの情動を動かす。
The death of person who knows very well moves human's mind into the deepest bottom
死んだように寝ているように見えても、親しい友人が自分から離れていくのはわかるのである。その情動の深さに、まわりで必死に対応に当たっていた人たちも思わず巻き込まれる。
Even sleeping like dead, however, he or she understand the close friend's body are going to be separated.
究極状態では、人間は実はバラバラではなく、生死の境目で深くつながっている。
By seeing such scene, other close friends got involved in the depth of emotional rivers together.
亀沢恵尼(Eni Kamesawa)
発見場所:日赤電停前停留所
江波陸軍病院で一夜を明かしたが恵尼は帰ってこない。
Eni didn't come back home during 6th...
7日早朝、探しにでかけた。
江波から舟入中町まで北上、東に曲がり、住吉橋、明治橋から鷹野橋電停まで出た。
On 7th, Mother started to search her...
「母は何もいわずにとっとと歩くんです。鷹野橋に出たので、雑魚場にいくんだなと思ったんです。」
The speed, Mother's walking, was out of imagination...in very high speed without saying anything...
ところが母は迷いもせず右折した。雑魚場にいくならここでも左折(北上)しなければならない。母はまっしぐらに、つんのめるような姿勢で早足で歩く。美幸らが追い付くのに困るほどだ。
Even for her daughter, it was really hard to catch up with ...
日赤病院でも足をとめず通過した。
She passed through Japan Red Cross Hospital...
電停前停留所に来たとき、母がいきなり足をとめた。
そこにたくさんの負傷者や死者が集めいられていて、兵隊がトラックに乗せていた。
At the station of the Hospital,
there were many dead and injured bodies, however,
suddenly Mother stopped, .....
「おそらく島の救護所に送るとこいったろだったんでしょう。今でも私は信じられないくらいなんですが・・。そこで、目もくれずに歩いていた母が、ピタっと足をとめ、負傷者の群れに向かって「うちのエニコはおらんかね」といったんです。
Even surrounded by those people,
without any hesitation,
Mother asked,
"Where is my daughter, Eni?"
そしたら、あしもとから・・。
本当に母の足元から「おかあちゃん・・」・・・
Then just under her feet...
Eni answered directly, "I'm here..Mother.."
まちがいなく、恵尼の声がしたんです・・。
これは、もはやDNA・直感 (center intuition)の導きだけがひっぱっているといっても過言ではない。くらい「産み出すもの」と「産み出されたもの」との関係は極限では強い。そしてその下に私たち全員を産み出した大地がある。「亀沢えに(KAMESAWA ENI)」という名前の音や意味、ダイレクトにたどりついたのが赤十字電停前、というのもとても重要と思う。
他の動植物たちはDNA・直感によってのみ成長したり行動しているが、人間は「泣いて生まれる」ことによりその直感から、意識がかなりそれて「言語脈を通じさせながら」日常生活を言語でできた道具に囲まれ、それらに守られながら生きている。けれども「極限状態」ではDNA・直感に非常に近い行動に出てくる人もまれではなく、また意識脈がその直感を交差し、逆に形成されることもない。よってEviはモラル川によって必ず跳ね返され、けっしてそこを意識交差してのしてきたり、地球から生まれた種のDNA・直感が、それを産み出した原本である地球を破滅させることもありえない。きのこ雲下の極限状態のひとたちの動向をつぶさに読み込んでいくことある。「モラルとは何かWhat is moral?」をしっかり認識すれば、言語意識のみによる「いくらでも悪くなるテキと増える核」という仮定のみで想定された「核の冬(nuclear winter)」「それを抑止する(deterrence)」という、永遠に続くごとくの負の仮定スパイラル(negative thesis spirals)は、実際はありえず(impossible)、「核廃絶への道」はより言語レベルでわかりやすくなるのではないだろうかIn order to consider "Nuclear abolition", it is easier to understand in language level when we look more carefully to see details what happened one by one under the huge explosion, in terms of moral and human's emotion.
[最初のヒトがヒトに対する核兵器による攻撃]で、その下にいたほとんどのヒトが死滅しながらも、「モラル値が高く、言語能力のある数少ない人間」が極限を生き残り、のち「ことばにせねば、記録せなば」という情動にかられ,、必ず「語りだす」ということを。
The first A-bomb's attacking against humanity, there were few those could survive but they are with full compassion and later by taking times, those people's DNA will make them to write or tell what really was under the mushroom cloud vividly.
森沢妙子(Taeko Morisawa)、照恵(Terue)、雄三(Yuzo)
救出地:兵器舎
妙子は兵器舎まで逃げ、父・雄三に救出された。
Taeko was rescued at an arsenal, where her
father Yuzo searched and found her.
雄三は、当時、水産業を扱う業界のボスだった。
Yuzo was at that time, a leader of fisheries around there.
この日、妙子と姉の照恵は、市内に行っていた。
On this day of August 6th, Taeko and her sister Terue had been to
the center of Hiroshima.
妙子は、建物疎開作業。
Taeko was for demolishing houses works.
照恵は、舟入中町にある、神崎小学校の保育所の保母として勤めていた。
Terue was working as a teacher of kindergarten in Funairi(舟入).
何時間たっても、照恵も妙子も帰ってこない。
Even many hours Yuzo waited, both of two never come back….
雄三は、何時間も家をでたり、入ったり、玄関の前でウロウロしていた。
In front of the house gate, Yuzo was wondering for hours.
午後2時ごろ、
Around 2 p,m,,
「森沢さん! 妙子さんは霞町の兵器舎におるよ!」
と誰かの声がした。
A voice said, “Mr. Morizawa! Taeko-san is in the arsenal in Kasumi(霞)-cho”
Yuzo run out of the house. Nobody there….
戸口を出たが、だれもいない・・。とにかく行ってみることにした。
But Yuzo decided to go the arsenal.
8-9キロは強引に走って、ともかく兵器舎についた。
Running about 8-9km, finally he arrived to the arsenal.
午後5時ごろだった。
It was about 5:00 o’clock.
兵器舎は、足元の踏み場もない様相だった。
Inside the arsenal was full of casualties…
雄三は大声で妙子の名前を呼んだ。
Yuzo cried, “Taeko! Taeko! ”,
「妙子!妙子!」
すると、奥の方で、「お父さん!」と答える声があるではないか・・。
For his surprise, Yuzo listened to a voice, ”Father, I’m here…”
ようやく見つかった妙子に、もってきた「砂糖水」を手渡すと、妙子は一口飲み、隣に渡した。あっというまに、そこにいる人たちでまわして飲み干してしまった。
Yuzo passed Taeko a bottle of “Sugar Water” he brought with him for her .
Taeko drunk it a gulp and passed around it to the people there.
Immediately the bottle become empty.
妙子のやけどの状況があまりにもひどかったので、手押し車で帰れそうにない。
Taeko's conditions of burnt was so bad that it looked impossible to take her back home by the handle wagon.
一晩、丹波の友人のところに泊めてもらい、翌日7日朝8時、丹波から船で草津に帰った。
Yuzo asked his friend to stay one night with her, and next morning at 8 a.m. Taeko & Yuzo went home by a boat.
自宅についたのが11時。
They arrived their home at 11 a.m.
それから、妙子は、自宅でまる一日生きた。
Then, Taeko was alive for all one day long....
「うなされ、うわごとをいいつづけましてな。あまり、お父さんとか、おかあさんとかいわないのですよ。仕事のことというか・・あんた、あれをしんさい、とか、ちゃんとならびんさいとか、指図しよりましてな・・」
"While lying down until last moment, she kept saying something .. not Mother or Father...She kept saying,' what she should do...you should do this, and you should do that.. line up in neat... such kind of things...'"
「森沢さんらしい・・。」"That's Taeko's character.."
照恵の方はついに帰らなかった。全く消息不明。もちろん骨もない。
Terue didn't come back... nothing belongs to Yuzo... no bones.....
「わしゃ、そのあと、10月2日まで、毎日広島に出向きました」。
"I went to Hiroshima every day until October 2nd.."
会社の社員22人、その身内もさがさならん。死体は8000体くらいさわっとる。
Our working members accounted for 22 at that time. They have families and relatives. So I had to search all of them. I touched more than 8,000 dead bodies for searching....
「あのころ、わしは、よう眠れんかったのですわ。」
"I didn't sleep at that time very well.."
毎日3時ころに目が覚が覚めてしまう。
"Every night, I woke up around three in the mid night."
暗いうちに起きて、井口まで歩いていったものです。
Even it was dark, I walked to Inokuchi(井口)...
井口の海岸で、ぼんやり1時間ほど休んで、海の方へ向かって叫ぶ・・。
There is a beautiful sea shore.. so I stared the waves and cried...
何度も、何度も・・・。
Many times...
「妙子! 照恵!」と名前を叫んだものです。
"Taeko!" "Terue!"
雄三は、戦後、水産業界をバックに、県議会・地方議会には知られた顔だった。
「けれども、33年間、こんな話(はなし)をしたのははじめてじゃ。今も話をするのがつらい。はなしとうないんじゃ・・・」
"I never talked this kind of story to others. It is so hard for me to talk about them..."
森沢雄三は業界では相当のやり手であるし、その娘、妙子もどちらかというと「武士」をおもわせるよう、なにごとも、「かかかっ」とわらってすませ、非常に男性的に物事を処理していく女性である。雄三が娘二人を亡くし、彼のその後の「やり手仕事」を支え続けたのは、人知れず井口の海岸で「娘たちの名前を叫び続けること」だったと思う。
また、森沢氏も、10月まで毎日ヒロシマに通ったのだから、放射線の影響はでてもよさそうだが、福崎氏と同じく、全くでていない。
放射線の影響は「情動」から読んだ方がわかりやすいことが多いのである。
鷺谷清子(Kiyoko Sagitani)
被爆死亡地:吉島の刑務所官舎
清子は、9日になって日赤で両親とめぐりあった。
Kiyoko met her parents at Japan Red Cross Hospital on August 9th.
父は僧侶で、吉島と山口県光の刑務所の教諭師だった。
Her farther was a priest and a teacher for prisoners in Yoshijima(吉島)and Hikari(光)facilities..
吉島の官舎には、母アサヨと清子の二人住まいだった。
Usually in Yoshijima(吉島) workers lodge, Kiyoko lived with her mother Asayo .
清子の父母は、6日から3日間、市内をかけめぐり、清子を探したが、わからなかった。
Her parents looked for Kiyoko for all three days since August 6th. They searched all places across the city but couldn’t find her out.
似島まで行こうかと相談しているところへ、日赤にいるという知らせがあった。
While her parents’ discussing to go to Ninoshima(似島), somebody let them know, “Kiyoko is in Japan Red Hospital.”
すぐに飛んでいくと、確かに清子がいた。
Immediately they went there and found her.
清子は「遅かったね」と、ふたりにいった。
Kiyoko said," You are late..."
すぐに吉島の官舎へ運んだ。
They rushed in moving her to Yoshijima(吉島).
吉島の刑務所は、爆心から南2キロでかなり近いが、刑務所の高い壁に守られて、距離の割には、破損が少なく、また焼けなかったのは幸せだった。
Yoshijima(吉島)is 2km away from h.c. though
being protected by the high walls of facilities, building damages were not so
serious or fortunately not burnt neither.
自宅で5日間、手厚い介護を受けがんばったが、ついに13日に息を引き取った。
Kiyoko back her home on 9th with both her parents.
Having her parents’ sincere care, she’d been alive and 5 days survived, however passed away on 13th.
清子の母アサヨは、今、島根県の恭願寺というお寺にいる。
Asayo is now living in a temple named Kyoganji(恭願寺)in Shimane(島根)prefecture.
その鷺谷家を訪れたいと思いながら、想いは達成せずにいたが、偶然、別の方面からそちらに出向くことになった。
I had thought to go to see Asayo in Shimane for long time, but it wasn’t
realized. But coincidently I got a chance to go around there.
恭願寺は山陰本線の線路わき際を、胸をつくように細長い階段を上がった、小高い台地の上にある。
私は清子の写真を持っていた。
I have a photo of Kiyoko.
そのころ写真館行きがはやっていたのである。戦争中で唯一の娯楽だった。
In those days, going photo shops and taking photos were a kind of only a leisure in severe war days.
その写真を見せると、
「あっ、これはうちにも同じものがあります。」
I show Asayo, that photo, she also said, “I have the same photo!”
「あの日、清子は、モンペのポケットに入れていたんです。
ところがモンペを三枚重ねてはいていたので、写真が残ったんです。」
”On that day, Kiyoko put this photo in the pocket of her war pants,
however on that day, she wore three war pants so that left this photo….”
「三枚?」
“Three…?”
「何か予感がしたんでしょう」
“May be she had some premonition…”
「覚えてます。このサージと、白っぽいかすりと、線がはいったのと・・。」
なんで、私は覚えていたのだろう?
“I really remember…this serge cloth, white one, and striped one…”
Why I remembered?
「そう、そうなんですよ。」
"Yes, you are right!", Asayo answered...
清子の父は、恭願寺の住職として死んだ。
Kyoko’s father died as a priest of the temple Kyoganji(恭願寺).
そのお寺の造りをみて
「いいつくりですね。」
“Wonderful architecture, isn’t it…”, I commented.
アサヨは本堂の柱をいとおしそうになでながら、半世紀以上も前にできた、
この本堂についての棟梁について、驚くほどの記憶ではなしてくれた。
Asayo told about the names of carpenters who engaged in building of the temple half century ago with marvelous memories.
山門に立つと、どこまでも松の林が続く。
When standing in front of the gate of the mountain, you can see beautiful lines of pine trees.
「綺麗ですね。」
“Beautiful..”
「綺麗でしょう。清子は、死ぬときに『おうちにかえりたい』と言ったんです。」
“Beautiful, isn’t it? When Kiyoko passed away, she told us ‘I want to go
home’,”
「おうち?」
“Home?”
「ええ、ここのことを言ったんですよ。故郷の、このうちのことを。」
“Yes. She told me the place here at her last moment.”
少しとまどった。清子の家は別のところにある。
I become a little bit wonder because Kiyoko’s home is not here…
でも、どこまでも続く黒松の松林と、澄み切った大空を眺めながめているうちに、つまらぬ詮索をした自分を恥じた。
However when I saw a long line of pine trees and clear sky, I myself persuaded…
「そうだ、ここが清子の『おうち』だ。美しい、美しい、清子の自然だ。」
“Yes, here is Kiyoko’s Home. Here is Kiyoko’s beautiful Nature.”
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