Thursday, August 31, 2017

  Nagasaki 長崎 ナガサキ ながさき
長崎被爆者 谷口氏 死去88
Mr. Taniguchi Passed Away in his age of 88

中国新聞 2017831

長崎原爆の熱線で焼けただれた体を撮影した「赤い背中の少年」の被写体として知られ、反核運動をけん引した日本原水禁被害者団体協議会(被団協)代表委員の谷口すみてる氏が30日午前345分、十二指腸乳頭部がんのため、長崎市の病院で死去した。

88歳。福岡出身。

「平和への誓い」Pledge(commitment) for Peace

            
自宅は長崎市渡島町1533

葬儀・告別式は91日午後1時から長崎市光町1618、平安社長崎斎場本館で、喪主は長男英夫氏。

谷口氏は、被爆者団体「長崎被災協議会(長崎被災協)」を立ち上げ、運動の柱であり続けた。

近年は、入退院を繰り返していたが、長崎市で昨年12月に開かれた国連軍縮会議では
「一日でも早く核兵器禁止条約をつくって」と呼びかけた。


郵便局員だった16歳の時、長崎の爆心地から1.8キロで配達中に被爆。

背中などに大やけどを負い、37か月に及ぶ入院生活の中で、米軍のカメラマンによって撮られた写真が世界に発信された。

太平洋・ビキニ環礁で、米国が1954年に行った水爆実験をきっかけに、長崎で被爆した故山口仙二氏(2014年死去)らと共に、平和運動に尽力した。

原爆症認定の要件緩和など、被爆者援護の拡充を訴え続けた。
06年に長崎被災協の会長となり、10年から被団協の代表委員。

背中の痛みは日常生活にも支障をきたしたが、海外にも積極的に出向き、被爆体験を繰り返し語った。

被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が、今年7月に採択された際には、
「(各国が)核兵器をなくす努力をしなければ成り立たない。」
とビデオ・メッセージで語っている。
When the Nuclear Weapons Prohibition Treaty was supported by over majority in UN of this July 7th 2017,

Mr. Taniguchi said,

“Unless every country has to make efforts to get rid of nuclear weapons, the real purpose of this treaty cannot be achieved.”
被爆者運動の象徴として先頭に立ち、30日に88歳で亡くなった長崎原爆被災者協議会長の谷口すみてるさんは、原爆投下後の地獄を語ることを「生かされたものの使命」として背負い続けた。

長崎で命を奪われた約7万人の苦しみや運動を共にした仲間たちの願いを胸に、高齢になっても自らを奮い立たせながら国内外で体験を伝えた。

「目をそらさないで。」
2010年、被爆者代表として出席した米ニューヨークの核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、被爆者として「核兵器は人間と共存できない」と、各国代表ら約400人の前で「真っ赤な背中」の少年の写真を掲げた。

"Don’t turn your eyes away from this photo and look straight at it.
Nuclear and the humankind can not coexist."
Mr. Taniguchi held up the photo in front of 400 people at NPT review conference in NY, UN, 2010.


194589日、16歳のとき、爆心地から1.8キロの路上で郵便配達中、爆風に吹き飛ばされた。
熱線で最中は大やけど。
入院生活のうち2年近くはうつぶせのままで、と床ずれで胸の肉は腐った。
「殺してくれ」
激痛のため何度も叫んだ。

1956年に山口仙二さん(故人)らと被爆者団体を立ち上げた。

入院中の谷口さんを撮影した米軍のフィルムは70年に見つかった。
その姿は世界に衝撃を与え、取材が殺到。
人前で話すことは苦手で、とまどった。

徐々に先頭に立つことを決心。
核兵器の恐ろしさを伝えるために、20回以上海外に渡り、被爆者の「顔」となった。

原爆が遺した傷は、肺を圧迫し、声を思うように出せない。
近年は入退院を繰り返した。

だが、亡くなった被爆者たちの叫び声を代弁することが「生かされている」理由。
体が動く限り休むわけにはいかない、と語っていた。

被爆70年の201589
「生きてきた集大成」として、平和祈念式典で壇上に立った。

On the commemorating day of 70 years since Nagasaki A-bombed, Mr.Taniguchi stood up on the podium as “a person who pledges for peace” 




「核兵器は、残虐で人道に反する兵器です。」。
静かな声には、深い感情がにじんだ。

広島でも悼む声

長崎で被爆した日本被団協代表委員の谷口すみてるさん(88)が30日亡くなり、核兵器廃絶の活動を共にした広島の被爆者や、若者たちに悲しみが広がった。

「被爆者のために力を尽くしてきた仲間を失い、非常に残念だ。」

ともに日本被団協代表委員を務めてきた広島県被団協理事長の坪井直さん(92)はコメントを発表し、別れを惜しんだ。

2010年、広島市であったノーベル平和賞受賞者世界サミット(Nobel Raureats Peace Summit in Hiroshima) での日本被団協の特別賞授賞式に出席。


16年から、核兵器を禁じ廃絶する条約の締結を全ての国に求める「ヒバクシャ国際署名」の呼びかけ人を務め、時に街頭で署名を呼びかけてきた。



Mr.Taniguchi's “hibakusha appeal"..This might be the last.”



谷口さんが願った、核兵器禁止条約は先月、国連で制定された。

30日、都内であった国際署名連絡会では、参加者約20名が黙とうをささげた。

2010年、米ニューヨークの国連本部であったNPT再検討会議で、各国の政府代表に向けて演説した姿が忘れられない。

「各国の政治家にものすごいインパクトを与えた。ありがとうございました。」



Monday, August 28, 2017

核兵器と人類は共存できない
Nuclearweapons and the Humankind cannot co-exist (Ichiro Moritaki)
 




The Papal Vision; beyond the bomb
「戦争は人間のしわざです。」、とは先カトリック教司祭の広島での言葉・・。
 (2019年11月)

From 1945.August 6th, there was no media report nor coverage on the A-bombing for years even here in Hiroshima, so ordinal people knew what had happened on Hiroshima firstly by John Hersy’s “Hiroshima” appeared in NewYorker on August 30, 1946, then recorded 300 thousands copies selling & published as a book world widely.

Actually what would happen on humanity due to the nuke bombing?
It was very difficult to know about reality of using such mass destructive wepons.

 "Hiroshima", by John Hersy.
This book's translation was published in April, 1949 by interviewed priest Mr.Tanimoto.

Even being attacked directly, can not be recognized for long time what it was if a weapon's damage was so huge.
Major photo coverage magazine “Asahi-Graph” treated Hiroshima in 1952 (7 years after).
Then people at last knew what had happened here, and started to talk their own stories. 
Since then anti nuclear movement rose up finally even on this land.

"Mass Destructive Weapons", making them with secrecy from the beginning, 
even though,
“The stopper” or “an edge” are on the center emotional line of 
“how honestly you can tell as your own story”, 
or 
“to be able to withdraw compassion from the bottom” as a same spices, 
and  to gain in each individual own lights back
you will start to notice, gradually. (not sensationally)

Because we all are on this same limited ground .
All our languages come from the ground of this one planet at first.
& all roots are in the same underground.
Plus nowadays we are already related and connected one by one.
By various  technologies under ground like EN as well.


「ヒロシマ原爆被害者」の国籍は約20か国以上に及ぶ。Nationalities of Hiroshima hibakusha are over 20「本当」を切実に訴えたい「ヒバクシャ(hibakusha)は、「1945年8月6日」その日から、国境を問わず「同じ経験、想い」をずっと共有し続けている。(核被害者フォーラム / Nuclear Victims Forum )


「解説」に替えて  森滝春子 氏
  (2017825日 ご自宅でお話をうかがったたおり)


「まなこひとつ 失いしかなしみ 深かれど ひとすじのみち みえざらめやわ」

194586日 広島で被爆し、右眼の光を失った森滝市郎が、2年後の1947年に詠んだ短歌である。

被爆直後、残った左の眼を激痛に耐えながら、こじ開けてみた地獄の状況は、生涯を通じて向き合わざるを得ないものだった。

郷里に近い村にあった眼科病院での療養の間、原爆被爆の体験が意味するもの、自分の生き方、人類が生きていくべき方向についての思索を通して、見えてきたひとすじの道への思いを詠んだものである。

哲学の徒として考え抜いた結論が、
「科学の発展の頂点で作り出された核文明は『力の文明』であった。
しかし、その『巨大な力』に対峙した人類は、
『力』の頂点を越え、
『(個々の人間を大事にする)愛・慈悲の文化』の方向に向かわなければ,
我々の存在全体が危うくなる。」
というものであった。

Mr. Moritaki’s final concept  he had gotten to as an A-bombed philosopher was,
“We humankind reached to the mountain top of science and technologies,
and it was the nuclear power technology".
But that was too much Power for existence of 
 humankind like us.
We humankind cannot co-exist with such too much "Power".

So we have to graduate from "Power Civilization",

and turn around toward the direction of
 "Peace Culture for individuals with moral (=its basement is love and compassion)”.

隻眼になって後50年近く杖に頼った生活がどんなにか不自由であったろうということは想像に難くないが、特に、残った左眼の視力が原爆性白内障によって極端に落ちてからは、度たびの国内外の旅行の折りには、駅などの案内表示を見るにもオペラグラスが手放せなかったし、当時はすべて手書きだった文章を書くときには原稿用紙のマス目に入れるため、虫めがねを用いるという様子からその厳しさが偲ばれた。

85歳になったころにはほとんど手探りの状況になり、長年の主治医はやっと
白内障手術の決断をくだされた。
残された眼の光さえ失う危険性のあった当時の手術事情からのぎりぎりの選択だった。

「まなこ一つ」によって長年にわたる反核・反戦運動、被爆者救援運動に携わることができたのであるが、白内障手術を受けて初めて自宅の海岸を一緒に散歩したとき、
「宮島や瀬戸の島々があんなに美しいとは! 色彩があったんだな。」と弾んだ声を上げたときのことは忘れがたい。

もうひとつ忘れ得ぬことがある。
原爆投下直前に父の郷里に疎開していた私が、三年後の夏休みに父が住んでいた学生寮にしばらく滞在した折り、父に教わって近くの本川の満ち引きの観察をしたことがあったが、一人で泳いだりもぐったりしていたとき、浅い川底の砂にうつる水紋の美しさに見とれているうち、小さな赤ちゃんの白い頭蓋骨を見つけた。
私は子供心にそれが何を意味するかが分かり、川から飛び上がって走りかえり、父に渡した。
父は無言で幼子の遺骨を捧げ持ち、拝んでいたが、突然大声を上げて泣き伏した。

父の号泣する姿を、私は86日の朝、何度か見た記憶がある。
原爆投下によってもたらされた未曾有の非人間的悲惨な体験に突き動かされて、
哲学者としての全存在を
「人類は生きねばならぬ」と、
93年の生涯を傾けたのだと思う由縁である。
The humankind have to continue to live


運動として反核運動の中心に「核兵器絶対否定」が据えられたのは1975年の原水禁世界大会においてであった。

「私たちは、核時代に突入したのであります。
核兵器は、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。

結局、核兵器と人類は共存できないのであります。

共存できない、ということは、人類が核兵器を否定するか、核兵器が人類を否定するかよりほかないのであります。

われわれは、あくまで核兵器を否定して、生き延びなければなりません。」


福島の核被災者が「われわれは棄民だ」と憤るこのありさま。

原爆被爆者についても、黒い雨による内部被曝の問題を切り捨てるのと同様、原発についても被害の実態をしっかりと検証するよう、「権力」に立ち向かわなければならない。


私たちが取り組んできたウラン鉱山採掘、核兵器廃絶、反原発、そして劣化ウラン兵器禁止など、核利用サイクルにおける核被害に目を向ける運動(Nuclear Victims Form)は、「核兵器と人類は共存できない」という森滝市郎の「核絶対否定」の信念の延長線上にあると、改めて思う。(more..)

 


                 核兵器禁止条約TPNW  )





Saturday, August 12, 2017


2017年 平和への誓い: Commitment(Pledge)for Peace

被爆者代表 深堀好敏さん Yoshitoshi Fukahori
40年間3000枚超の原爆関連の写真を、2013年から3年連続の渡米を含め、各方面から収集検証している



爆心地から3.6キロの疎開事務所に学徒動員されていました。
I was 16 years old when being A-bombed on August 9, 1945.
Working as a mobilized student (Gakuto-doin:学徒動員) at an office of evacuation, 3.6 km away from H.C.

112分、白い閃光(閃光)と爆発音を感じ、机の下にもぐりました。
At 11.02, feeling acute and white flash with huge sound of explosion, immediately I went under the desk.

町並みは消え、別世界に迷い込んだようでした。
The whole Nagasaki town I lived in and was accustomed to, gotten been totally extinguished in instant, and I felt as if  I entered  quite different world.

18才の姉は、息絶えました。
Soon my elder sister, 18-year-old, stopped breathing.

浦上天主堂が炎上し、涙があふれ、怒りを覚えました。
Urakami(浦上)Church had sunk in flare of fire.
Tears flowed and my heart became filled with anger…

「ああ、世界が終る」と。
“Is this the end of the world…?”

川には折り重なって死体が浮いていました。
In the rivers, indistinguishable corpses were piled up and floating.

12日、母と弟で姉を荼毘にふしました。
My mother and I cremated my sister by our own hands.

母は地面を見つめ、ただ祈り続けました。
My mother looked up the sky and I felt "her pray will sound to last forever."

1発の原爆は、74千人を傷つけました。
Only one atomic bombing onto Nagasaki destroyed 74,000 lives.


「核と人類と共存できない」と確信しています。
I certainly believe, “Nuclear and Humankind cannot co-exist.”

2011年3月11日
(東京電力)福島第一原発事故で、再び、核の脅威におびえました。
Again, on March 11, 2011, we have been terrified by ‘the Threat of Nuclear' due to the accidentof TEPCO’s FUKUSHIMA Nuclear Power Plants.

わたしたちは、自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。
We humankind should move toward the direction of energy by natural reusable resources.

平和憲法を国是として復興した我が国が、
Our country Japan has recovered from after the war devastation based on 'the Peace Constitution'.

世界から集めた尊敬と信頼は失ってはなりません。
Then this peace constitution that renounces the war become the big reason why our country being able to be relied on from all over the world.
So we should never lose this reliance and credibility in the field of international position.

唯一の戦争被爆国としての責務も忘れてはなりません。
And we should not forget that we Japanese have to behave as  people who live in the country that has direct experience of only nuke bombed.

3千枚超の原爆写真を収集検証しました。
I have collected A-bomb related photographs over 3,000 and checked in details.

原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、
I believe the power of photographs that can express the truth what happened under the mushroom cloud.

被爆の実相を伝え、恒久平和と核廃絶に尽くします。
And I will do my best to make this world true and eternal peace place.



Thursday, August 10, 2017

長崎原爆の日
核禁止条約「早く参加を」

中国新聞 2017810


長崎は9日、原爆が投下されてから72年を迎えた。

長崎市松山町の平和公園で、市主催の「原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、原爆投下時刻の午前112分、参列した市民らが黙とうした。





田上富久市長は、平和宣言で、例年訴えてきた原爆投下後の惨状を後回しにし、国連で7月に採択された核兵器禁止条約を「被爆者が積み重ねた努力が形になった。」

と評価。

条約に加わらない日本政府に「唯一の被爆国として、一日も早い参加を。」と迫った。

田上市長は、宣言冒頭から、核禁止条約に触れ、
「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼んで歓迎。

核保有国と、核の傘の下にある国、安全保障を核に頼ることのないよう求めた。

例年は原爆投下後の人々や街の凄惨な描写から始めていた。

東京電力福島第一原発事故で、放射能の脅威にさらされた福島にも、7年続けて言及し「被災者を応援する」と述べた。

その後、被爆者代表の深堀好蔵さん(88)が「平和への誓い」を朗読。
「町並みは消え、姉は息絶えた。世界が終る、と思った。」と回想した。

長崎市によると、式典には平和公園の約5400人を含む3会場で、被爆者や犠牲者の遺族、計58か国と欧州連合(EU)の代表ら計約6300人が参列。

核保有5大国は、駐日米臨時代理大使ら、各国代表が参加した。

7月末までの1年間で、長崎市が新たに死亡を確認した被爆者は3551人。

原爆死没者名簿に記された総数は175743人となった。

今年3月末時点で、市内に住む被爆者は3813人で、平均年齢は前年比0.96歳上昇の80.01歳。

厚生労働省によると、全国で被爆者健康手帳を持つ人は、2016年度末時点で164621人。

平均年齢は81.41歳。






Wednesday, August 9, 2017

長崎平和宣言(平成29年 2017年)
Nagasaki Peace Declaration 2017
201789




                                                               

1min. silence                                                 


「ノー・モア・ヒバクシャ」。
“No more Hibakusha


この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。
These words express the heartfelt wish of the hibakusha that in the future nobody in the world ever again has to experience the disastrous damage caused by nuclear weapons

その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生みだしました。
This summer, the wish has moved many nations across the globe and resulted in the creation of a certain treaty.

核兵器を使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える、122か国の賛成で「採択」されたのです。
The treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, which of course prohibits the use of nuclear weapons, and furthermore their possession or deployment, was adopted this July by 122 nations, a figure representing more than 60 percent of the United Nations’ member states.

それは、被爆者が、長年積み重ねてきた努力が、ようやく形になった瞬間でした。
This was a moment when all the efforts of the hibakusha over the years finally took shape.

私たちは、被爆者の苦しみや努力にも言及したこの条約を、「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。
I would like to call this treaty, which mentions the suffering and struggles of the hibakusha, “The Hiroshima-Nagasaki Treaty”

そして、核兵器禁止条約を推進する国々や、NGOなどの、人道に反するものを世界から無くそうとする強い意志と、勇気ある行動に、深く感謝します。
I would also like to express our profoundest gratitude to all of the nations that promote this treaty, the United Nations, NGOs and others who have acted with such vigorous determination and courage to rid the world of weapons that go against the spirit of humanity.

しかし、これはゴールではありません。
However, this is not our final goal.

今も世界には15000発以上の核兵器があります。
There are still around 15,000 nuclear weapons in the world

核兵器をめぐる国際情勢は、緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。
The international situation surrounding nuclear weapons is becoming increasingly tense.
A strong sense of anxiety is spreading across the globe that in the not too distant future these weapons could actually be used again.

しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちがめざす、「核兵器がない世界」にたどりつく道筋はまだ見えてきません。
Moreover, the nuclear-armed states are opposed to this treaty and there is no end in sight to the road towards “a world free of nuclear weapons,”the realization of which is our objective.



ようやく生まれたこの条約をいかに生かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
The human race is now faced with the question of how this long awaited treaty can be utilized to make further progress.

核兵器を持つ国々と、核の傘の下にいる国々に訴えます。
I hereby make the following appeal to the nuclear-armed states and the nations under their nuclear umbrella.

安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。
The nuclear threat will not end as long as nations continue to claim that nuclear weapons are essential for their national security.

核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。
Please reconsider your policies of seeking to protect your nations through nuclear weapons.

核不拡散条約(NPT)は、全ての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。
The Nuclear Non-Proliferation Treaty(NPT) obligates all its member states to achieve nuclear disarmament.

その義務を果たしてください。
Please fulfill this obligation.

世界が勇気ある決断を待っています。
The whole world awaits your courageous decisions.

日本政府に訴えます。
To the Japanese government, I have this appeal to make.

核兵器のない世界をめざして、リーダーシップを取り、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。
Despite the fact that the Japanese government has clearly stated that it will exercise leadership in aiming for a world free of nuclear weapons, and play a role as a bridge between the nuclear armed states and the non-nuclear armed states, its stance of not even participating in the diplomatic negotiations for the Nuclear Prohibition Treaty is quite incomprehensive to these of us living in the cities that suffered atomic bombings.

唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。
日本の参加を国際社会は待っています。
I urge the Japanese government to reconsider the policy of relying on the nuclear umbrella and join the Nuclear Prohibition Treaty at the earliest possible opportunity.
International society is awaiting the participation of Japan.

また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と、非核三原則の元首を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
Furthermore, I ask the Japanese government to affirm to the world its commitment to the pacifist ethos of the Constitution of Japan, which firmly renounces war, and its strict observance of the Three Non-Nuclear Principles.

As a specific policy representing a step forward towards a world free of nuclear weapons, it should act now by examining the concept of a “Northeast Asia Nuclear-Weapons-Free-Zone.”


私たちは、決してそれを忘れません。
194589日午前112分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人ものひとびとが死傷した事実を。
This, we will certainly never forget the fact at 11:02 a.m.pm August 9,1945, an atomic bomb exploded in the air right above the hill where we are now assembled, killing and injuring 150,000 people.

あの日、原爆のすさまじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。
On that day, furious blast and heat rays reduced the city of Nagasaki to a charred expanse of land.

皮膚が垂れ下がりながらも、家族を探し、さまよい歩く人々。
黒焦げの子供の傍らで、ぼうぜんと立ちすくむ母親。
街のあちこちに、地獄のような光景がありました。
People whose skin hung down in strips staggered around the ruined city looking for their families.
A dumbfounded mother stood beside her child who had been burnt black.
 Every corner of the city was like a landscape from hell.

十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。
Unable to obtain adequate medical treatment many of these people fell dead, one by one.

放射線の障害が被爆者の身体をむしばみ続けています。
Even now, 72 years after that day, the damage resulting from radiation exposure continues to ravage the bodies of the surviving hibakusha.

原爆は、いつもそばにいた大切な家族や友達の命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無残に狂わせたのです。
Not only did the atomic bomb indiscriminately steal the lives of beloved family members and friends who had always been at each other’s side, it then went on to hideously devastated the subsequent lives of those who survived.

世界各国のリーダーの皆さん。
被爆地を訪れてください。
Leaders of all the nations of the world: please come and visit the atomic-bombed cities of Hiroshima and Nagasaki.

遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聞いて、心で感じてください。
I want you to see what happened down here on the ground beneath the mushroom cloud, not from a perspective high above it; I want you all to see with your own eyes, hear with your own years, and feel with your own hearts just how cruelly the atomic bomb trampled on the dignity of human beings.

もし、自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
I want you to imagine how you would feel if your own family had been in Nagasaki on that day.

人は、あまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。
When people have experienced something painful and distressing they tend to lock up that memory in their hearts and are reluctant to talk about it.

語るためには思い出さなければならないからです。
This is because talking about it entails being reminded of it.

それでも、被爆者が心と体の痛みに耐えながら、体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、、懸命に伝えようと努力しているからです。
The fact that the hibakusha have continued to talk about their experiences while enduring physical and mental scars represents an act by individual members of human kind to protect our future by determining, to makes the utmost efforts to spread their message.


世界中のすべての人に呼び掛けます。
I make this call to all the people of the world.

最も怖いのは無関心なこと。
そして、忘れていくことです。
The most frightening things are disinterest and the process of forgetting.


戦争体験者や、被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく、未来へつないでいきましょう。
Let us all pass on the baton of peace that we have received from the hibakusha and those who have experienced war, so it is seamlessly carried on into the future.

今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。
The 9th General Conference of Mayors for Peace is currently being held here in Nagasaki.

世界の7400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。
Many representatives of towns and cities that have painful memories of war and civil strife participate in this network of 7,400 municipalities.

被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちと共に世界に発信します。
In solidarity with our friends in Mayors for Peace, we will send out from Nagasaki to the world the message that with united efforts and unwavering commitment, even calls of peace from small cities can provide a strong impetus for global progress, just as the hibakusha have shown us.

そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた
「長崎を最後の被爆地に」
という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
“Nagasaki must be the last place to suffer an atomic bombing.”
These are the words hibakusha have continuously repeated until their voices have become hoarse.
We will prove that their words are a common wish and ambition of all mankind.

被爆者の平均年齢は81歳を越えました。
「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。
The average age of the hibakusha now exceeds 81 years.
 The “era in which the hibakusha are still with us” is drawing to an end.

日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
I strongly request that the Japanese government improves the assistances given to hibakusha, and provides relief to all those who experienced the atomic bombing.

福島原発事故から6年がたちました、
長崎は、放射能の脅威を経験した「まち」として、福島の被災者に寄り添い、応援します。
Six years have elapsed since the Fukushima Nuclear Power Plant Accident.
 As a city that has experienced the threat of radiation, we stand with the victims in Fukushima Prefecture and offer them out support.

原子爆弾で亡くなられた方々に、心から追悼の意をささげ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
I hereby pay tribute to the memory of all those who lost their lives to the atomic bombing, and declare that we, the citizens of Nagasaki City, will join hands with all the people around the world who pray for a world free of nuclear weapons and everlasting world peace.

2017年(平成29年)
89日 August 9