Saturday, March 5, 2016

原爆を生き続ける証人 谷口すみてるさん


鎌田 のぶ子  (1975年 被爆より30)

長崎電報局配達課運用主任、全電通長崎電報分会執行委員。
長崎港をみおろす大島町の高台に、小柄で気さくな感じの奥さんと、元気なふたりの子供さんと暮らしている。長身でやせ形、浅黒い顔に、左ほおから首にかけての傷が生々しい。

被爆25周年の夏、彼は新聞で、25年前の自分の姿と対面した。
「真っ赤に焼けただれ、うつぶせになった16歳の少年・・・。」

それは疑いもなく私のかつての姿である。この痛苦に耐える顔、やけるような赤い皮膚の色が、私の眼のなかで、ふと虐殺されたベトナムの少年の顔と色に変貌する。殺してくれ!と私は何度叫んだことだろう。この生々しい血と皮膚の色を見ていると、私にはこうした複雑な思いがわきたってくる。(「長崎の証言」第2集)

私もその同じカラー写真を息をのむ思いで見た。
そして、その後の新聞記事で、あの焼け爛れた少年が現存し、しかも原水禁運動と深くかかかわりつつ生き抜いていることを知った時の、驚きと感動は、いまもなお鮮明によみがえってくる。

虐殺されかけたあの少年の目から、今までの30年間、谷口さんはどう生きてきたのか。
彼の半生をささえてきたものは何なのか。この問いを胸底にすえながら、過日、私は彼をたずねた。

あの日まで、谷口さんは他のすべての少年たち同様、報国の意気にもえた少年戦士であった。竹の久保町の淵国民学校(高等科)を卒業すると長崎電報局に就職し、きびしい勤務の明けくれを送っていた。働き手を戦場と工場にとられた人手不足の折から、週休もあるかないかで、欠勤でもしようものならたちまち憲兵隊から呼び出され、「自分の家のことなど考えずに職場を守れ」と厳しくとがめられた。

昭和20(1945)88日は局泊りだった。翌9日も友人にたのまれて日勤をつづけることにし、その朝は祖母が届けてくれた弁当をたいらげ、配達にでた。

赤塗りの局用自転車はオンボロでチューブもつぎはぎだらけ。いつパンクするかもしれず、修理道具一式は必携品だった。

11時過ぎ、住吉町電停交差点付近(1.8キロ地点)を通過中、彼は突然、道路から自転車もろとも吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた。

「稲妻のような閃光と、近くで遊んでいて34歳の子供がほこりのように吹き飛ばされるのが見え、直径30センチの石が私の方向に飛んできて腰に当たった、と思ったら、また飛んでいきました。私が伏せていたのは23分だったのに、その間、私の脳裏に浮かんだのは“戦争はいやだ”ということでした。わたしは、必死で、この場で死んでなるものか!と自分で自分を勇気づけていました。」

「乗っていた自転車は、飴のようにひしゃげてころがっていた。左手をみたら、肩から手の先まで、紙を剥いだように、皮膚がたれさがっていました。右手と左足の外側は黒く焦げ、背中や尻に手をやってみると、着ているものはなく、ぬるぬると焼けていました。」

一瞬にして現出した地獄図の中を、彼は150メートルほどあるいて山腹のトンネル工場まで行き、機械油で傷をぬぐい、垂れ下がった皮膚を切り取るなどしてもらい、さらに50メートルほど上がった山中まで背負われて、そこで一夜を明かした。

翌日、一人で這って、すこし下の半壊の家までたどりつき救いをまった。

3日目の朝、やっと戸坂で道の駅まで運ばれ、そこで探しに来た祖父と出会い、一緒に市の学校に収容された。その後さらに、2度移動し、11月、大村海軍病院(現在の大竹国立病院)へ運ばれた。
新興小学校で、谷口さんが寝ていた畳をはいだら、板張りが腐って、穴があいていたという。

ほとんど2年間はうつぶせに寝たまま身動きもできず、食事も用便もそのままの姿勢で行った。
「生きているということが苦しく、毎日、殺してくれ、と叫んでいました。」

22年の5月に、やっと起きて座ることができたが、背中全体、腰までの火傷、左足外側から、膝から、上全部火傷、うつぶせで寝たきりの間に、ほほと胸部にひどい床ずれ、そして左ひじは110度より以上には開かないという無残な姿となった。

傷がまだ全治しないまま、243月末に大村海軍病院を退院、7月1日から職場に復帰した。

「人並みに働けるか。また世間の人たちが、このような傷だらけの人間をどのような目で見るか、そのつらさを思う時、心の底から、戦争に対する憎しみと悲しみに、幾度となく病室の外にでて泣きました。」

職場の仲間たちのうち、何人かは、あの日、中心地付近に入ったまま行方不明、軽症を負って復帰した人もいたが、まもなく死亡している。
だから負傷し生存している被爆者は谷口さんだけであった。
おそらく、生存被爆者の中でも、最も重度の負傷であろうといわれているほどの谷口さんが生き延びたのは奇跡に近かった。

昭和30年、平和を求める広汎な国民の意志に支えられて、第一回、原水爆禁止世界大会が東京で開かれ、翌年第2回大会が、長崎で開かれた。

谷口さんは、このとき分科会に参加し、初めて自分の被爆の実情を訴えた。

谷口さんが平和運動に関わっていく決心を固めたのは、昭和30年から33年にかけてのことであった。
「この間に見聞き、いろんな勉強をしました。正義感がつよいとか、根性があるとか、ひとからよく言われますが、自分は決して生まれながらのものだとは思いません。あの、骨身を削られるような長い苦しみの中で一番感じていたことは、なぜ戦争のためにこんなに苦しまんばならんとか、なぜ、親たちが戦争をとめさせきれなかったのか、ということでした。原爆にあったがために、それまで得られなかった信念が生まれてきた、と思います。」

「人をぺてんにかけたり、まちがったことは絶対しない。謝らねばならぬようなことは、はじめからしない。人間としての善悪をはっきりさせるのが自分の信念だし、この信念はだれにも通じるものだと思います。」

書物による勉強は満足にしていなくとも、作業場、生活上必要な知識は、生き字引といわれるほど豊かに身に着けてきた。そのような谷口さんによせる仲間たちの信頼の深さと、それにこたえる彼の誠実さはまっすぐで美しい。

「何よりも核実験に反対しているのは、身を持って体験した被爆者自身だし、私たちの目標は、核兵器の全面禁止。被爆者の完全援護。ひいては本物の平和な世界ということです。そのためには、中途でやめたり、運動を分裂させたりするわけにはいかんでしょう。

本当に戦争のない世界がつくられるまで、長い道のりを歩いていかなくてはならない。私は、自分が歩んできた道、進んできたこの道を、人からなんといわれようと固く信じ、今後も進むつもりです。」

(「広島・長崎30年の証言 197586日刊」より)


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