核兵器と人類は共存できない
「戦争は人間のしわざです。」、とは先カトリック教司祭の広島での言葉・・。
(2019年11月)
From 1945.August 6th, there was no media report nor coverage on the A-bombing for years even here in Hiroshima, so ordinal people knew what had happened on Hiroshima firstly by John Hersy’s “Hiroshima” appeared in NewYorker on August 30, 1946, then recorded 300 thousands copies selling & published as a book world widely.
Actually what would happen on humanity due to the nuke bombing?
「解説」に替えて 森滝春子 氏
(2019年11月)
Actually what would happen on humanity due to the nuke bombing?
It was very difficult to know about reality of using such mass destructive wepons.
"Hiroshima", by John Hersy.
This book's translation was published in April, 1949 by interviewed priest Mr.Tanimoto.
Even being attacked directly, can not be recognized for long time what it was if a weapon's damage was so huge.
Major photo coverage magazine “Asahi-Graph” treated Hiroshima in 1952 (7 years after).
Then people at last knew what had happened here, and started to talk their own stories.
Since then anti nuclear movement rose up finally even on this land.
"Mass Destructive Weapons", making them with secrecy from the beginning,
"Mass Destructive Weapons", making them with secrecy from the beginning,
even though,
“The stopper” or “an edge” are on the center emotional line of
“how honestly you can tell as your own story”,
or
“to be able to withdraw compassion from the bottom” as a same spices,
and to gain in each individual own lights back
you will start to notice, gradually. (not sensationally)
Because we all are on this same limited ground .
or
“to be able to withdraw compassion from the bottom” as a same spices,
and to gain in each individual own lights back
you will start to notice, gradually. (not sensationally)
Because we all are on this same limited ground .
All our languages come from the ground of this one planet at first.
& all roots are in the same underground.
Plus nowadays we are already related and connected one by one.
Plus nowadays we are already related and connected one by one.
「ヒロシマ原爆被害者」の国籍は約20か国以上に及ぶ。Nationalities of Hiroshima hibakusha are over 20. 「本当」を切実に訴えたい「ヒバクシャ(hibakusha)」は、「1945年8月6日」その日から、国境を問わず「同じ経験、想い」をずっと共有し続けている。(核被害者フォーラム / Nuclear Victims Forum )
(2017年8月25日 ご自宅でお話をうかがったたおり)
「まなこひとつ 失いしかなしみ 深かれど ひとすじのみち みえざらめやわ」
1945年8月6日 広島で被爆し、右眼の光を失った森滝市郎が、2年後の1947年に詠んだ短歌である。
被爆直後、残った左の眼を激痛に耐えながら、こじ開けてみた地獄の状況は、生涯を通じて向き合わざるを得ないものだった。
郷里に近い村にあった眼科病院での療養の間、原爆被爆の体験が意味するもの、自分の生き方、人類が生きていくべき方向についての思索を通して、見えてきたひとすじの道への思いを詠んだものである。
哲学の徒として考え抜いた結論が、
「科学の発展の頂点で作り出された核文明は『力の文明』であった。
しかし、その『巨大な力』に対峙した人類は、
「科学の発展の頂点で作り出された核文明は『力の文明』であった。
しかし、その『巨大な力』に対峙した人類は、
『力』の頂点を越え、
『(個々の人間を大事にする)愛・慈悲の文化』の方向に向かわなければ,
我々の存在全体が危うくなる。」
我々の存在全体が危うくなる。」
というものであった。
Mr. Moritaki’s final concept he had gotten to as an A-bombed philosopher was,
So we have to graduate from "Power Civilization",
“We humankind reached to the mountain top of science and technologies,
and it was the nuclear power technology".
But that was too much Power for existence of
humankind like us.
We humankind cannot co-exist with such too much "Power".
So we have to graduate from "Power Civilization",
and turn around toward the direction of
"Peace Culture for individuals with moral (=its basement is love and compassion)”.
"Peace Culture for individuals with moral (=its basement is love and compassion)”.
隻眼になって後50年近く杖に頼った生活がどんなにか不自由であったろうということは想像に難くないが、特に、残った左眼の視力が原爆性白内障によって極端に落ちてからは、度たびの国内外の旅行の折りには、駅などの案内表示を見るにもオペラグラスが手放せなかったし、当時はすべて手書きだった文章を書くときには原稿用紙のマス目に入れるため、虫めがねを用いるという様子からその厳しさが偲ばれた。
85歳になったころにはほとんど手探りの状況になり、長年の主治医はやっと
白内障手術の決断をくだされた。
残された眼の光さえ失う危険性のあった当時の手術事情からのぎりぎりの選択だった。
「まなこ一つ」によって長年にわたる反核・反戦運動、被爆者救援運動に携わることができたのであるが、白内障手術を受けて初めて自宅の海岸を一緒に散歩したとき、
「宮島や瀬戸の島々があんなに美しいとは! 色彩があったんだな。」と弾んだ声を上げたときのことは忘れがたい。
もうひとつ忘れ得ぬことがある。
原爆投下直前に父の郷里に疎開していた私が、三年後の夏休みに父が住んでいた学生寮にしばらく滞在した折り、父に教わって近くの本川の満ち引きの観察をしたことがあったが、一人で泳いだりもぐったりしていたとき、浅い川底の砂にうつる水紋の美しさに見とれているうち、小さな赤ちゃんの白い頭蓋骨を見つけた。
私は子供心にそれが何を意味するかが分かり、川から飛び上がって走りかえり、父に渡した。
父は無言で幼子の遺骨を捧げ持ち、拝んでいたが、突然大声を上げて泣き伏した。
父の号泣する姿を、私は8月6日の朝、何度か見た記憶がある。
原爆投下によってもたらされた未曾有の非人間的悲惨な体験に突き動かされて、
哲学者としての全存在を
「人類は生きねばならぬ」と、
93年の生涯を傾けたのだと思う由縁である。
哲学者としての全存在を
「人類は生きねばならぬ」と、
93年の生涯を傾けたのだと思う由縁である。
The humankind have to continue to live |
運動として反核運動の中心に「核兵器絶対否定」が据えられたのは1975年の原水禁世界大会においてであった。
「私たちは、核時代に突入したのであります。
核兵器は、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのであります。
結局、核兵器と人類は共存できないのであります。
共存できない、ということは、人類が核兵器を否定するか、核兵器が人類を否定するかよりほかないのであります。
われわれは、あくまで核兵器を否定して、生き延びなければなりません。」
原爆被爆者についても、黒い雨による内部被曝の問題を切り捨てるのと同様、原発についても被害の実態をしっかりと検証するよう、「権力」に立ち向かわなければならない。
私たちが取り組んできたウラン鉱山採掘、核兵器廃絶、反原発、そして劣化ウラン兵器禁止など、核利用サイクルにおける核被害に目を向ける運動(Nuclear Victims Form)は、「核兵器と人類は共存できない」という森滝市郎の「核絶対否定」の信念の延長線上にあると、改めて思う。more..