Tuesday, September 5, 2017

大野町陸軍病院と枕崎台風

爆心地から約20キロの旧大野町の状況

86日>
核爆弾の炸裂の時、大野町では異様な光線を感じ、続いて強烈な爆風を受けた。
戸・障子が倒れ、窓ガラスが壊れた。
戸外で爆発に直面した人は、顔面が熱くなったように感じた。
爆弾がさく裂後、白い煙上の雲が高度3000メートルくらいで急速に波上に広がると、見る間に爆風を受けた。
爆風が来て、大野駅裏付近は倒れたが、丸石の陸軍病院付近は倒れなかった。
その後、市内から毎日負傷者が運ばれてきたので、医師、軍医、女子青年団員、婦人会員などが救護にあたったが、その惨状は筆舌に尽くしがたいもので、荼毘に付した遺体は150体とみられる。

917日>
そこに枕崎台風が襲ってきた。
中国軍管区司令部から原爆被害の調査と対策のための研究の要請を受けた京都大学は、医学部の教授陣を中心に、理学部物理学の研究者を加えた研究調査班を組織して、広島にやってきた。
93日から研究を開始したが、917日、枕崎台風が広島地方に襲来し、滞在先の大野陸軍病院が山津波に見舞われた。
山津波が一瞬にして大野陸軍病院の中央部を破壊し、山陽線を越えて海中に押し流した。
このため、入院中の約100人の被爆者と職員合わせて156人、さらに京都大学の原爆調査班や付添いの家族が犠牲になった。

2011311日、東北・関東地方を襲った東日本大震災は、地震と津波、それに続くフクシマ原発の「大事故」によって「原発震災」になり、一層の混乱と悲惨を生みだした。

核時代における「自然災害と人災の複合災害」は、

86日」と「917日」が決して「むかしばなし」ではないことを私たちに告げる。

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