「日本の死生観」と「コトバ」
日本には、基層の文化、底流の思考をいうものがあり、それは空気や水のように、あまりにも慣れ親しんでいるのでかえって気づきにくいものといえるかもしれない
それは八雲という異人の眼によってこそ、はっきりと見届けられたのかもしれない。
八雲の「日本学」の基底にあるのは、本質的な直感であり、柔軟で神秘主義的な感受性だった。
彼の感性は、日本において現実のこの世界こそが「他界」をはらんだものであることを実感した。
死者の世界と、生者の世界をあくまでも峻別して考えるという、西洋的、キリスト教的な死生観は、成立しない。
生は死とまじりあい、死は生を支える礎のような役割を果たしているといってよい。
それを、「科学心理学的」にいってみれば、
「生きているものの脳髄には、いずれも無量無数の死者の生命(遺伝子)から構成されている。人間の性格は、すでに死滅した無数の善悪の経験の総計である。」
この「死者の心霊の遺伝」ということを考えずに、現在の我々の存在を考えないわけにはいかない。
我々の衝動、感情、そこから発展してくる能力などは、我々の死者たちによって与えられたものであり、死者たちによって譲られたものである。
我々の衝動、感情、そこから発展してくる能力などは、我々の死者たちによって与えられたものであり、死者たちによって譲られたものである。
我々のすべての行為は、我々の死者の観下を受けていると言える。
モノにたとえていうと、「人間は幽霊のすみか」である。
八雲にとっては、日本人は、文明社会にあっても、むしろきわめてプリミティブな信仰や精神が生き残っている、その日常の行い、立ち居振る舞い、目に見えないものとの交流が不断にあり、死者たちの記憶やしきたりによって、現世の様々な出来事を考え、判断し、決定しているように思われる。
日本人にとって、死者とともに生きるということは自然な事であり、当然のことである。
東洋の「我」というのは、西洋の「個」ではない。
直感と耳学問、八雲はそれによって、日本人の「我」が、いわゆる西洋の「個」ではないことを、また前世に生きていた人たちの魂の一種の集合体であることを、洞察した。
古代の日本人には、いま、我々が考えているような「死」の観念はなかった。
「勢いのなくなる」ことを表し、「萎」という漢字をあてていた。
「たましい」は外側から、人間、動植物、あるいは事物その他に入り込み、宿るものであって、そこから人間その他は現実的な力をつけるのであって、「たましい」が宿主から遊離してしまえば、威力も、勢いも雲散霧消してしまう。
人間も、動植物も、本質的には同じである。
外からの魂を、とりこみ内在し、取り込むことを「鎮魂」「たまふり」といい、この「ふろ」が変化して「ふゆ」となり「増える」ともなる。
みたまのふゆまつり、とは、魂を分ける司祭のことをいう。
そして、「はる」とは、外来の魂が付着して、生気がみなぎることになる。
信仰の儀礼、季節の行事などもすべて、この「たましい」の往還、その勢いの消長にかかわるものである。
人間のコトバに付着する「たましい」は「言霊」であり、言葉そのものの力と言うよりも、そとから付着するものである。
どんなコトバにも魂がやどるのではない。
文脈が続いていなければ、言霊は宿らない。
断片化してしまえば、その力は失われてしまう。
断片化してしまえば、その力は失われてしまう。
音義論的な考え方では、「音」そのもの、「音」のつながりであるコトバには、それなりに霊力はやどる。
けれども同時に、続いている「エネルギーの脈」として文章に寄り添ってくるものが、
Dead People’s Sprits 死者の魂
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