Sunday, December 25, 2016

ハワイ移民 知る契機に 犠牲者慰霊 友好深めて
首相、真珠湾訪問前に、資料館(南区)の川崎さん

中国新聞 20161225


広島市南区仁保の ハワイ移民資料館「仁保島村」館長で、移民だった父親を持つ川崎寿さん(73)は期待を寄せている。

広島県は、多くの住民をハワイに送った「移民県」。

ただ、真珠湾攻撃で始まった戦争では、日系移民二世たちが米兵となり、親の祖国と戦った歴史もある。
「苦難を知り、犠牲者を慰霊することが友好につながる」と願う。

川崎さんの父は仁保地区から1900年代初頭にハワイに移り、サトウキビ栽培に従事。
永住した親族もいたが、父は41年の真珠湾攻撃を前に帰国し、仁保に戻った。

日本生まれの川崎さんには、ハワイで暮らした経験はないが、父や親族が苦労した移民の歴史を伝えたいとの思いから、約20年前に移民の調査を始めた。

自宅の蔵を改修し、96年に開いた資料館には、明治時代のパスポートや、戦前のハワイの写真パネルなど収集した資料を展示している。

広島とハワイのむすびつきは深い

1885年に始まった明治政府主導の「官約移民」で、県内からは国内最多の約11千人が渡航した。

田畑が狭い仁保も移民が多い地域だった。

1930年ごろには、ハワイの人口の約4割を日系人が占めていたという。

川崎さんの調査では、開戦後に米軍の捕虜になり、戦後に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)に通訳などとして雇われ、日本の地を踏んだ人もいた。

「母国による攻撃は衝撃だったはず。日本との断絶が決定的になり、つらかっただろう。」

ハワイでの日系人の苦難を知るだけに、首相が真珠湾を訪れて慰霊するとのニュースを聞き、「素直に嬉しかった」と話す。

移民の調査を始めたころ、真珠湾で旧日本軍に撃沈された戦艦上にたつアリゾナ記念館をおとずれたことがある。

居合わせた米国人から冷たい視線を感じたが、花で作った首輪(レイ)を慰霊碑に手向けると、ウインクされるなど、心が通じたように感じたという。

2627日の両日に予定される安部首相のハワイ訪問が近づく。


「人間として、慰霊の気持ちを示してほしい。多くの日本人が移民や戦争の歴史に目を向け、真珠湾を来訪する契機になってくれれば」と話す。

Sunday, October 23, 2016

「はだしのゲン」は被爆を知る一歩 翻訳の苦労を語る

“Barefoot Gen” is the first step to know “HIBAKUSHA”

Now available more than 20 languages

中国新聞 20161023

広島での被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」が海外でどう広まったかを解説する講座が22日、広島市南区の「市まんが図書館」であった。

オーストラリア出身の県立広島大のロナルド・スチュワート准教授(52)が
「原爆を取り上げた本の中で一番インパクトがある」と魅力を語った。

市民13人が聴講した。

日本の漫画訳を20年間研究してきたスチュワート准教授によると、「ゲン」の初の翻訳本は1978年に英国のボランティア団体が出した英語版で、「当時はあまり置いてくれる店がなかった」という。

転機は2004年だった。
「米国の出版社が全10巻の新訳版を出し、古典漫画や教材として受け入れられるようになった」と説明。

現在20か国以上に翻訳されており「日本を代表する漫画のひとつ」。

「米国人にとって被爆者の立場を知る入口になる作品だ」と強調した。

同じシーンの日本語版と英語版を並べて示し、翻訳の難しさも語った。

「広島とヒロシマは、英訳で区別できない」
「日本語独特の皮肉や方言は表現しにくい」

などと語った。

参加した南区の主婦〔54〕は
「海外で普及するまでにいろいろな苦労があったとわかった。
今後もっと広まってほしい」と願っていた。





Thursday, October 13, 2016

ピーターソン・ひろみさん(被爆2世)
Ms. Peterson Hiromi has received "2016 Kiyoshi Tanimoto Peace Prize "
原爆の記憶継承 谷本清・平和賞受賞 link  

20161013日 中国新聞

公益財団法人 ヒロシマ・ピース・センター(広島市佐伯区 鶴衛理事長)は12日、第28回谷本清平和賞に、米ハワイ・プナポワ学園の元日本語教師で、被爆2世のピーターソン・ひろみさん(68)=ホノルル市=を選んだと発表した。
Hiroshima Peace Center has announced that "the 28th Kiyoshi Tanimoto Prize" will be presented to Ms. Peterson Hiromi(68) in Honolulu, Hawaii. 
Ms. Peterson was a former teacher of Punahou School to teach Japanese.

平和教育や国際交流を通じ、次世代へ戦争と原爆の記憶の継承を進めた功績を評価した。
Kiyoshi Tanimoto was a priest of Nagarekawa(流川) Church in Hiroshima. 
He is as a survived priest, firstly written in John Hersey's "Hiroshima" 
And in his name, since 1987, "Kiyoshi Tanimoto Prize" have been awarded every year to individuals who made great activities and movements for peace in various fields. 
In 2016, Ms. Peterson Hiromi in Hawaii is awarded because she dedicated herself to succeed the memories of wars and A-bombing during WWII to next generations in her fields of Hawaii.

ピーターソンさんは、広島市南区出身。
両親と兄弟3人が被爆し、父親は右半身に大やけどを負った。
Ms.Peterson is the second generation of Hiroshima survivor.
Her parents and three brothers got heavily burnt and injured in Hiroshima A-bombing.

1972年、米国人との結婚を機に、ハワイへ移住し、オバマ大統領も通った同学園で84年から2014年まで日本語教師として勤務。
In 1972, Ms.Peterson moved to Hawaii when she got married to her husband in US, and she has worked there as a teacher of Japanese language in Punahou school where President Obama went to as well.

原爆被害を扱った中高生用の日本語教科書を出版し、平和教育を進めた。
She has engaged in publishing Japanese textbooks for high school students, those can be read in English. Textbooks by her, are dealing with A-bombing disasters and those casualties. In Hawaii, she dedicated herself for writing and translating in her own style.

教科書の印税で創設した基金の一部を使って09年から毎夏、同学園の高校生二人と教師一人を広島市へ平和学習に派遣。
Every summer from 2009, she has sent her school students and teachers to Hiroshima for peace learning.

今年5月のオバマ氏の広島訪問時は、ピーターソンさん自身が市内を訪れ、広島県内の高校生たちと交流した。
When President Obama visited Hiroshima in May, 2016, Ms.Peterson also visited herself almost the same place of memorial and conducted some peace exchange activities among high school students in Hiroshima.

ピーターソンさんは
「立派な賞をいただき、光栄。
これからも平和を築き上げ人を育てることを使命に生きていく。」
とコメントを寄せた。
Ms. Peterson commented,
"I'm really honored to be able to receive such a great award. From now on too, I want to continue to dedicate myself to teach next generations for making world more peaceful place."

1113日、中区である授賞式に出席する。

同賞は、被爆者支援に尽くした広島流川教会(中区)の故谷本清牧師の遺志を継ぎ、87年に創設。

世界平和の実現に向けて、活動する個人や団体に贈っている。




Wednesday, September 28, 2016

Nuclear War:核戦争】

By Ira Helfand 2023 related (スピーカー)
アイラ・ヘルファンド氏 (IPPNW 核戦争防止医師会議)

movie


He(Dr. Helfand) is the past president of physicians of social responsibility, and currently the co-president of the Global Federation; the International Physicians for the Prevention of Nuclear War(IPPNW).
(スピーカーである、アイラ・ヘルファンド氏は)「責任ある医師の会」
の前会長であり、また「核戦争防止医師の会(IPPNW)」の共同議長を現在務められています。

He has published on medical consequences of Nuclear War in New England Journal Medicine, British Medical Journal and Medicine of  Global Survival.
氏は、「核戦争における医学的影響」について、ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル、及びメディスン・オブ・グローバル・サバイバルなどにも寄稿しておられます。

And the author of the report  “Nuclear Famine”.
2 billion people are at risk.

そして、有名な報告書「核戦争によって引き起こされる飢餓」の著者でもあります。
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<Nuclear Famine: 核戦争によって起こされる飢餓>

The Use of as few as 100 Hiroshima-sized bombs, less than 0.5% of the world’s nuclear arsenal, as might take place in a war between India and Pakistan, would cause world wide climate disruption.
ヒロシマ・サイズの核兵器100弾頭(世界にある核弾頭全体の0.5%以下)が、インド・パキスタン間の地域核戦争で使用されることによって、大きな気候変動が引き起こされる。


The resulting decline in food production would put up to 1 billion people at risk of starvation, mainly in Latin America, Africa, and South Asia.
その結果、食物生産が激減し、主にラテン・アメリカ、アフリカ、南アジア諸国の10億人の人々が飢餓のリスクにさらされる。

Subsequent studies of the actual declines in major food crops that would follow this limited nuclear war led the organizations to warn that a billion people in China might also face famine, raising the global total to 2 billion at risk.

その後も、その限定核戦争だけで、食物生産は激減し、中国も飢餓の危機にさらされ、世界全体で20億人がそのリスクにさらされる、というもの。
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IPPNW was a recipient of 1985 Nobel Peace Prize.
IPPNW(核戦争防止医師の会)は、1985年ノーベル平和賞受賞団体でもあります。

And I know Ira doing work in “Ican ; International Campaign for Abolishing Nuclearweapons", which is moving very rapidly  to get  a new kind of treaty which I think he will talk about.
また、同時に活動しておられます「Ican」は、核廃絶へ向けて、近年、顕著に動き出している団体で、核廃絶交渉のための条約作成などを目指しています。

Thank you.
以上ご紹介のうえ、(スピーチを)よろしくお願いいたします。


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Thank you.
ご紹介ありがとうございます。

So I want to talk you today about “Nuclear War”,
本日、私がみなさんにお話ししたいのは「核戦争」についてです。

Obviously very strong issue and convictions among the people here who need to know World War in general, but I think I’m talking about “Nuclear War”, the urgency is perhaps greater.
非常に強烈で深刻な問題、「世界戦争」について考えているのですが、特に私が今回言及したいのは「(世界)核戦争」を考慮する緊急性が、現在非常に高まっている、ということなのです。

Back in 1980s, we all understood the extent of the Nuclear Threat we faced, and we understood the Nuclear Weapons could destroy human civilization and our species.
1980年代、私たちはみんな「核戦争の脅威」に晒されているのだ、「核兵器は、人類の文明や生命・種を破壊するものだ」ということを理解していました。

That understandings has largely vanished in the world.
この「理解や認識」というのが、現在、ものすごい勢いで私たちの意識から消えていっているのです。

With the end of the Cold War, people conclude incorrectly, and danger gone away, and really stop thinking about,not only including  many of us, who are in peace activists and communities as well.
冷戦の終了と同時に、人々は、不正確に、「核兵器の危機」は去ったのだ、私たちのような平和活動家でさえ、そう考えている人々が多くなってきているのです。

But of course as we know, it’s some level of danger did not gone away.
けれども、もちろんですが、その危機のレベルはそのまま、どこにもいかずに
私たちはその危機に晒されているままなのです。

Still there are 15000 nuclear warheads in the world.
15000発以上もの核兵器が世界に存在しているのですから。

Vast majorities arsenals are in United States and Russia,
その大多数は、米国とロシアに存在します。

And there are some other nuclear weapons states as well.
そして、その他の核保有国が持っているという状況です。

And we have learned in recent years, several things are quite alarming.
そして、現在私たちは、ここ近年、(核について)数々の事象について、危機的レベルまで来ていることを学んできました。

One is that is not taken necessarily full scale War between United States and Russia, and destroying human civilization.
ひとつは、米ロ間の冷戦による全面核戦争で人類文明が滅亡するということを考える必要はなくなりましたが、

Much more eliminate conflicts could do that.
もっと限定的な地域紛争から始まる「戦争」からの「人類滅亡」を考えなければならなくなっているのです。

Number two, we have learned  that our world is changing in other ways to very di stablising.
そして、二つ目に、私たちの世界は、現在、非常に不安定な状態に置かれている、ということです。

Particularly the climate change is putting increasing stress into the entire planet, dramatically increasing the danger of conflicts including risks of conflict  escalate into  Nuclear Wars.
特に、気候変動がこの星・地球全体を、現在劇的、危機的状況に置いており、そして現代の紛争は「核戦争」をも含んでいます。

So I think very important first to understand fully the extend of the threats opposed by these weapons.
ですから、これらの兵器によってさらされるリスクの「全体像をまずつかむ」、ということが非常に重要になってくるのです。

What kind of scenario we should take into account?
どのような「シナリオ」を考えればいいでしょうか?

We look into particularly consequences of wars between India and Pakistan.
インドとパキスタンにおける紛争を特にとりあげてみます。

I think most of us are familiar with the image of Hiroshima.
ほとんどのみなさんが、「ヒロシマ」のイメージを思い浮かべられると思います。

The first Telegram to Dr.JUNOD from ICRC’s earliest delegation, August 1945

World Red Cross(ICRC) representative, Doctor Junod wrote clear about the bomb fell on the city.
国際赤十字代表として派遣されたジュノー博士の手で、「ヒロシマ」に落とされた原子爆弾について、詳しい記述が残されているというのもあります。

But we need to understand this image cannot serve for us to understand as the model of danger we face.
けれども、この「ヒロシマのイメージ」というのは、現在私たちが直面している「核戦争」にもはや符合しなくなっている、ということを理解しなくてはなりません。

In future nuclear war, it’s not going to be one small bomb on to one or two cities.
将来の核戦争を予想するとき、もはや1,2都市に向けて一発ずつの核爆弾で終了することはないのです。

It’s going to be many weapons, many times larger, the destruction going to be far greater than anything we can sum up by looking at Hiroshima and Nagasaki.
より多く、複数の核兵器が使用され、それももっと強力で、その破壊力となると、ヒロシマやナガサキを検証して得ることができるものより、はるかに悲惨なものになるのです。

We look at the scenario particularly of the War between India and Pakistan for number of reasons.
想定する核戦争シナリオに「インド・パキスタン」を考慮する理由はいくつかあります。

These are two nuclear armed states.
どちらも、核保有国です。

They have fought numbers of wars since their independence 1940s.
1940年代の独立から、数多くの戦争を行ってきた間柄の二国です。

And in which they are engaged in very aggressive nuclear arms races at moment in both sides for spending arsenals.
そして、そこでは非常にアグレッシブに核保有競争が行われ、双方とも(核に)資金をつぎ込んでいるのです。

There are real potential war will take place there.
(核)戦争が起こる発端となる可能性が非常に高い地域なのです。

We consider the scenario of the War between India and Pakistan.
ですから、我々は「インドとパキスタンの間で起こる(核)戦争」というのをシナリオとして考慮するのです。


Each use just fifty Hiroshima size bomb against other side,
お互いが、広島型の50倍のサイズの核兵器を使用して戦ったとします。

This is less than half of their building nuclear arsenals.
これは、現在双方が保有している核兵器の半部以下です。

We found this is very horrible.
とても悲惨な結果が予想される、という結論にいたりました。

Directly in South East Asia, explosion fire and radiation will kill over 20 million people
東南アジアでこれが起こったとして、爆発の火炎、熱波、放射線とで、2000万人以上の人が死亡します。


Largely contaminated by the radioactive materials.
大部分が、放射性物質の汚染影響を受けた結果となります。

This is the disaster unprecedented since the end of the Second World War what happened.
これは、第2次世界大戦終末期にも起こったことのない、前代未聞の出来事になってしまうのです。


(その後、世界の一部で勃発した核戦争であれ、地球規模の気候に重大な影響を及ぼし、温暖化とは反対に、地球全体が膨大な原子雲に覆われ、冷却化が起こり、地球規模の飢餓、経済活動の停止などへと連鎖反応が起こり、飢餓、及び人類や生物の死滅をまねく、という概略。

また、現在の米・露関係は、冷戦が終わった当時に比べ、かなりの緊張関係にあり、ヒロシマ・サイズの30-40倍の破壊力の核兵器をお互いに向きあって、待機している状況。そのどちらかが、核兵器の応酬を開始してしまえば、数時間から数日で、人類は自滅という結果にいたる。)

Scientists Support a Nuclear Ban 
(TPNW) /To commemorate Dr. Bernard Lown, a founder of IPPNW  

Saturday, August 20, 2016



広島の消えた日
The Day HIROSHIMA Disappeared

被爆軍医の証言
Hibaku Testimony by a Military Doctor
 
肥田舜太郎
Shuntaro Hida




19824月 1982, April

開け放した座敷から雲一つない86の夏空がまぶしく輝きわたっている。
On August 6th, 1945. 
Shining summer sky was above me.

そのはるか高い彼方を飛行機が一瞬、銀色に光りながらゆっくり動いた。
There was something silver bright in it, and it was slowly moving...



B29の機影はちょうど、広島の上空へさしかかろうとしていた。
"Was that B29!?"

偵察飛行だろうと気にも留めず、注射器の中の空気を押し出して、よく寝ている病人の腕をまさにとろうとしていた。
At that time, I was holding an injection syringe and touching my patient arm...

その瞬間である。On that moment...
かっと、あたりが真っ白にくらんで、焔のあつさが顔と腕をふいた。
Acute lights...
Felt terrible hot waves on my cheek...

あっと、声を出したのは覚えている。
注射器をどうしたかはわからない。
"Ah.."
then I don't remember anything after...

両手で顔を覆って、平蜘蛛のようにその場にはいつくばった。
はらばったまま、わずかに顔をあげて、指のあいだからあたりの様子をうかがった。
When my consciousness back, I saw around...


一面の火の海、と予想した眼に空の青さが飛び込む。
Just only blue sky...
ウソのように静かだった。
Very quiet...
縁先の庭木の葉が微動だにしない。
No movement in the garden plants...

一瞬の閃光と熱風はどこへ去ったのか。
今のは夢かと、もう一度目をこらして広島の空を見渡した。
"Is it a dream?". I looked over the sky again...

その時、広島の町並みをさえぎる丘の連なりの上に、
指輪を横たえたような真っ赤な大きな火の輪が浮かんだ。
Then I saw a huge cloud growing up in the middle of Hiroshima city...


と、その中心に突然、真っ白な雲の塊ができた。
In the center of the cloud become quite white...but..

それは、またたくまに大きくなり、火の輪を内からおしひろげてたちまちふくれ上がって巨大な火の玉になり、
Immediately it turned to be a huge fire ball..
同時に下は、広島市を踏み砕く火柱となって立ちはだかった。

すると、市をさえぎる山並みの稜線に帯のような真っ黒な雲が現れた。
Along with the mountains, black clouds appeared and expanded..
市の幅いっぱいに広がったその黒雲は、泡をかすんでくずれる土用波に似て、一気に丘の斜面をすべりおりると、森を、林を、田や、畠を見る限りの万象を巻き込みながら、
like strong summer waves in the sea,they covered  all woods, trees, paddy fields, potatoes fields, houses, towns and everything..
太田川の谷を一杯に埋めて戸坂村に向かっておし寄せ始めた。
The valleys of Ota river become full of blacken clouds' waves and come to Hesaka(戸坂)in surprising speed...

すぐ眼の下の小学校の屋根が、蒙々とした砂塵のつむじ風に軽々とひきはがされるのを見て、はっと腰をおとしたときには、私の身体がもう空中にすくいあげられていた。
When I saw  the elementary school's roof tops were separated, my body was also thrown away into the air...

背を丸めて目を閉じた私は、二間続きの何枚かの畳を飛んで、奥の仏壇にいやというほどたたきつけられた。
I was crushed to the Buddhist Alter heavily..
もんどり打ったその上に泥をまじえた大屋根が恐ろしい音をたてて崩れ落ちた。
The school's roof tops were crushed down with the huge sound, too...

広島に紅蓮の火柱が立つ。
Pink fire pillars from the ground of Hiroshima..
桃色にもえ輝く火柱が無限の高さにどん欲にわきのぼっていく。
Seemed rising up forever into the sky..

不意に背筋が寒くなって下腹のあたりに言い知れない恐怖がにじり上ってきた。
Suddenly,I felt my spine chilly,and on my down belly with indescribable pain of fear.

「私の今、みているものは何なのか。」
28歳の人生経験にない未知の世界がそこにある。
“What is ‘what I am seeing’ now?”
The reality nobody had known in the history, and  I never have experienced for 28 years since I was born on this planet, WAS RIGHT THERE..

広島全市を火柱の下に踏み敷いて、壮大にそびえたつ「きのこ雲」。


A huge ‘Mushroom Cloud rose up and Covered over the Whole Hiroshima City, with Fire Pillars.

私は知らず知らず、大地にひざまずいていた。
I was unconsciously kneeled down on the ground.


8月の空の、その透明な明るさを、
しゃにむにかけ消そうとするかのように、
猛然と立ち上がった巨人の雲は、五彩の色に輝きながらどこまでもふくれあがっていった。


広島市全市の土砂と砂塵を一瞬にまくり起こした巨大な爆圧の嵐は閃光と熱線におくれるわずか数秒の差で、私の眼に異様な巨大な黒い津波の全容をみせたのである。
Coming several seconds after the rays & heat  waves,the explosion blew up all the grains and sands of  whole city. Looked for me, it was like huge black sea of tsunami....





私は病人が無事であることを確かめ、預け、自転車を走らせていた。
「きのこ雲」に続く、乾いた白い道を、一散にペダルをふんだ。
行先をさえぎる巨大な雲の異様な姿が無性におそろしかった。
あの火の下に、あの雲の下に、何が起こっているのだろう。

広島陸軍軍医として、私はその下で果たすべき重い責任がある。
そんな自覚だけが、ともすればひるみがちになる足を前へ前へと押しやっていた。
I thought I have a responsibility to go to the center of Hiroshima..as a military doctor...

まがりかどを駆け下った私は突然、岩角からあらわれた人影を見て急ブレーキをかけた。
自転車がきしんではねて、踊って、草むらに投げ出された。

痛みをこらえてはね起きた私は、道路の真ん中に立つその姿を見て思わず息をのんだ。
While riding the bicycle, I fell down, and I saw something black was moving..

それは「人間」ではなかった。
I can't say that was a human-being....

それは、ゆれうごきながら私に向かってすこしずつ動いてくる。
人間の形はしていたが、全体が真っ黒で裸だった。
胸から腰から、無数の切れがたれさがり、胸の前にささげるように突き出した両手先から黒い水がしたたり落ちている。
異様に大きな頭、膨れ上がった両の眼、顔半分までにふくれあがった上下の唇、焼けただれた頭に一筋の毛髪もない。

私は、息をのんで後ずさりした。
ぼろ切れと見たのは生皮、したたり落ちている水は血液だった。
男とも、女とも、兵隊とも、一般人とも、見分けるすべのない焼け焦げた人間の肉塊が、引き裂かれた生皮をぶらさげてそこにあった。

わたしのほうへうめき声をあげながら、両手をさしだして、よろけ、もつれて二三歩あるいたが、それが最後の力だったろう。その場に倒れてしまった。

駆け寄って脈をとろうとしたが、手にふれる皮膚らしいところはどこにもなかった。

呆然と立ちすくむ私のまえで、けいれんして動かなくなってしまった。

あたりをみまわしたが、どこにも人手はおらず、家もない。

とにかく広島にいそがねばと思い、自転車を立て直して進みかけた私の足は、その時、その場にくぎつけになったまま動かなくなった。


焦げて、焼けて、ただれて、生皮のはがれた、血のしたたる群像が、道一杯にひしめいて、うごめきながら、行く手を塞いだのである。


立っている人、よりそっている人、いざる人、

どの姿にも、「人間」を意識させる何一つのしるしはなかった。


どうすればよいか、私にはわからなかった。

とりすがられても、治療の道具、薬品ひとつ持ち合わせていない。

といって、いそぐからと悲惨なこの重症のひと達を押し分けて通る勇気はさらになかった。
いけばいくほど、道は負傷者で埋まっているにちがいない。

私は、とっさに自転車を道ばたの草むらに投げ捨てると、
いきなり太田川の流れの中に飛び込んだ。


岸に茂る草の下を、腰まで水につかって川を下った。
I left my bicycle and jumped into the Ota river...

水を求めて斜面を転がり落ち、灌木にからまって息絶えた死骸をいくつ見ただろうか。
Against me, countless corpses flew down the river...

真っ黒な熱風が前後左右を渦を巻いて襲い掛かってくる。

その度に、私は水にもぐり、息をつめてはまた顔をあげる。

真夏の明るい空はどこにもなく、横殴りの烈風が水しぶきをあげて頬をたたいた。

ときどき、大音響とともに爆発する火勢が花火となって煙を赤く染める。

燃え上がる火に追われて人々が対岸から次々と川の中にこぼれ落ちるように飛び込んでいた。
Human crowds were thrown down to the river in a moment...

市内にはいるどころか、私はそこから一歩も動けなかった。
The crowds stopped me. I couldn't go forward any more...


腰から下を水につけて、川の流れの中に呆然と立つ私の周りを、顔を失った裸の群れが、幽霊のように両手を前に突き出して無言で過ぎて通る。

人間らしい言葉はひとつもなかった。
There was no humanity...




息の絶えた屍体が、そのいくつかは水面に浮いて、そのいくつかは水中を漂って私の身体につきあたり、向きを変えて川下へ流れ去る
Corpses were floating down and down....some stuck to me...

いたいけな小さな姿をいくつもみた。
Among them, they were children...

そのたびに、奥歯をかんで、泣くまいと、空を見上げた。
I almost cry aloud to see them, then I looked up the sky..

さかまく黒煙のその上に、
嘘のようにあかるく輝く夏空に傘を開き切った壮大な「きのこ雲」が、
五色に輝いて、
私を見下ろしていた。
Still the huge mushroom cloud was looking down to me..


いきなり後ろから名を呼ばれた。

呼びすてられて、上官と知ったが、眼の前に両脇を支えられて立つ姿を、最近着任したばかりの庶務課長鈴木中佐と知るまでかなり時間がかかった。軍刀を杖にしてかろうじて立った上半身は焼け焦げた肉塊だった。

「残念だ。広島陸軍病院は全滅した。院長閣下の留守にこんなことになって申しわけない……わしは……。」

言いたかった言葉はそんなことだったのだろうか。

息切れが激しく、ほとんど言葉にならない。

手を貸して、水のない砂地までいざなったが、あとは何かわからぬことを口走りながらくずれるようにうずくまってしまった。

どのくらいその場に立っていたのか、記憶は定かではない。


見る者すべてが、焼けただれたむごたらしい姿なのに比べて、
たった一人、まともな格好をしている自分の方が異常のような気がしてきて、
狂うのではないかと、非常な恐怖におそわれたことを覚えている。
Everyone I saw was burnt, burning, blackened & around was so cruel..
On the other hand, without any injuries, I was almost to lose myself  & really frightened....







ふと気が付くと兵隊をのせた和船が下ってきた。
一人の将校が水中へ降りて近づいてきた。
顔見知りの将校だった。

私が出てきた戸坂村には、もう数えきれないくらい負傷者が入り込んできているから、すぐ引き返して救護にあたれ、という。
「広島陸軍病院には、責任がある。無断で離れるわけにはいかない。」
と、抵抗する私に、
「この火の中 へ入れると思うか?治療は軍医にしかできないことだ。病院にはわたしたちが行って伝えるから。」
と理にかなった説明に、わたしは、ようやく引き返す決心をした。

将校が、川の水を頭からかぶって兵と共に火の中へ下ってゆくのを見送ると、そのまま戸坂村へ向かって、私は川を上り始めた。

川をのぼっての戸坂村への距離は、途方もなく長かった。

あえぎながら、ようやく見覚えのある堤防の階段を上って、街道へ出たわたしは、おもわずそこへ座り込んでしまった。


足が立たぬほど疲れもはげしかったが、眼の前に見る村の様子に、正直、度肝をぬかれたのである。


市街中心部は参謀本部になっていたので、千枝子は市外の戸坂の陸軍病院へ向かった。
「広島駅から戸坂の方を見たときの驚きを忘れられません。けが人や担架の列が黒くつながってアリのようで・・。駅から戸坂までつながっているんです・・。」駅から戸坂までは優に3キロはある・・・。(「原爆で死んだ級友たち 広島第二県女 2年西組」より)
The center of Hiroshima was the army’s place, so Chieko decided to go Hesaka(戸坂), the place where Dr.Hida mainly worked.
So she looked to that direction, and she got big shock. She has never forget ‘that scene’… many  injured peoples’ line…..It is about 3km from Hiroshima station to Hesaka…..and those crowds of heavily injured people were slowly moving and walking toward Hesaka…. (excerpt fr 'My Classmates who died in A-bombing' by Chieko Seki)



道路といわず、学校の校庭といわず、乾いた土の上は見る限り、足の踏み場もない負傷者の群れだった。

屋根を飛ばされて壊れた校舎の残骸が校庭に散乱する小学校も無残だったが、それにも増して眼を奪うのは、大地に折り重なった肉塊の数である。

道に倒れ伏した屍体をのりこえて引きも切らず、後から後から血みどろの集団が入り込んでゆく。

死臭と血の臭いと、肉の焼けた異様な臭気があたりに満ちていた。



校庭の隅に臨時につくられた治療所では、すでに机を並べて応急処置を始めていた。

「おう!帰ったな。どうだった?」

「工兵橋より先は火で入れませんでした。すぐ手伝います。」

学校に隣接した役場では、村長以下、村の幹部が顔を集めて相談している。

「なんとかしてつかあさい。どうもなりまへんで。」


村中の家という家に、血だらけの負傷者が上がり込んで、座敷に倒伏し、恐ろしさに逃げ出した家人があぜ道に並んでいた。


立場上、私が指示することになった。

村中の人を集めること、保管している軍の疎開米を出して炊きだすこと、あるだけの大豆油とぼろ切れを集めて火傷の治療班をつくること。急いで焼き場をつくること。


「このあたりは、土葬で焼いたことはないのう・・。」

「ざっと見たところで、二百や三百じゃきかない。全部掘りますか?」

村役場の幹部は納得し、学校の裏の林に臨時の火葬場をつくることが決められた。

二本の青竹に荒縄を編んだにわかづくりの担架にのせて、恐ろしい形相をした屍体を何十、何百と運んだ。

それらは、人間の遺体とはほど遠い黒焦げの肉の塊にすぎなかった。
感傷や涙の入る余地は、ここにはなかった。

一人でも、半人でも、息のあるものを人間にかえす仕事が必要だった。

そして、被爆者は、ひきも切らず、戸坂村をめざして「きのこ雲」の下から避難を続けていたのである。

倒れている負傷者の口に粥を流し込むのは小学生の役だった。

「いいか、死んだ者にはやらんでもええだぞ」

そんなことを念を押す年寄りもいたが、大人でも正視することのできない恐ろしい死体に、子供たちは近寄ることもできなかった。

ほとんどが火傷に外傷を合併していた。

衛生兵と婦人会の何人かが、油を入れたバケツを片手に、ボロキレに油をひたして、横たわっている患者の火傷にぬりつけて歩いた。

誰の知恵なのか、大きな木の葉をぬらして創面を覆うものもいた。

私も加わった4人の軍医は応急処置に没頭した。

医療機械も一部しか届いてなく、薬品も医療材料もすぐに底をついた。
出征している村の開業医の家族の好意で提供された小外科の機械が大変役にたった。

止血、縫合、ガラス片の除去、創傷治療、時には緊急の関節離断までが行われた。



87も快晴に明けた。

ひきも切らず、村にたどりつく負傷者の数が小さな村をうめつくしていた。

身内や縁者をたずねる遠来の人たちがいりまじり、焼け焦げた傷者と屍体に満ち満ちた広島陸軍戸坂分院は足の踏み場もないほどごったがえしていた。


10時ごろ、軍司令部から緊急召令がどこからともなく伝えられてきた。

折よく、山口の分院から三人の軍医を含む数十名の救護隊が到着。

人手が一挙に増えたのを機に、市内の偵察をかねて、私が連絡にいくことになった。

一望の焼野原、いくつかのビルの残骸がわずかに残るその向こうに、嘘のように白く光る真昼の海があった。

目指す広島城の天守閣はすでになく、街はただ、茫々と焼けつくした瓦礫の原と化していた。

あちこちに色とりどりのうす煙が立ち上っている。

その間を、人影が列をつくって動いていた。

残留放射能がこのひとたちの多くの命を奪うことになろうなどと、このときはまだ誰もわかっていなかった。


広島城跡への見当をつけると、電線を道しるべに、歩き始めた。

踏み出すと、灰はまだ熱く、そこここに火の色を残している。
長靴の下に、焦げた肉と骨があった。
時にはうめく声さえ聞いた気がする。


やがて、第二陸軍病院の焼け跡に出る。
わずか八か月にすぎなかったが、数々の想い出が胸をかけめぐった。
親しんだ人たちの何人が無事にここから出られたことか。
涙がとめどもなくあふれて乾いた頬を流れた。


緑の芝生が、憎いほど鮮やかな本部の前庭に三つの屍体を見た。
誰とも見分けるすべのない炭の塊にすぎなかった。


炊事場のあたりに水浸しになった2頭の馬の屍体があった。
あの火の中でどのような死に様をしたのか、
焼け残った皮膚の濡れて黒光りする異様なみずみずしさが眼を射る。


それから向こうは、ひと目でそれとわかる病棟の焼け跡に鉄の寝台が乱れながらも整然と並んでいる。

爆圧の強さを教えるのか、脚が全部、いっせいに飴のように折れ曲がっている。

動かすのに骨の折れるあの重く頑丈な鉄の骨組みを瞬間に真上から押しつぶすとは一体、どのような力だったのだろう。

飛び出した二つの眼玉を胸の前にぶらさげた屍体、肛門からはらわたがはみ出た屍体、昨日からいくつか見たそんな屍体の物語る意味が、今になって改めて胸にこたえる思いがした。


火を見る前におそらく全員即死してしまっただろう、一つ一つの寝台の上には、灰をかぶった傷病兵の骨が、一体ずつ、まるでウソのように並んで横たわっていた。


広島城内にはいると、筑山の芝生の間を、道はいくつにも分かれる。
目標になる天守閣がないまま、うろ覚えの小道を奥にすすむうち、小さな池のほとりに出た。
On August 7th, I decided to go to the military center, again...
と、大きな樹の根元に、ひとりの人間の姿を見た。
Then I saw a man of rather white skin under a big tree.
下ばきだけの肌が、異常に白い。
Wearing on his only underwear....


"Captain! Water Please!" 森孝人作

                  











「外人捕虜 POW?・・。」
とっさに、そう思った。
幹の根もとに後ろ手にしばられ、脚が長い。
He was tied his hands behind his back with a rope.
足音を聞いてこちらを向いた顔は、まだ幼い童顔だった。
Looked young, even still childish face
さかんに何かをうったえる。その意味は分からなかったが、「水」を求めているらしい。
He tried to say something... 
and I thought he wanted Water...
東京の、大阪の、日本のすべての都市を焼いた敵兵のひとり。
an enemy...even though...he is a same person as myself.

ちらっとそんな考えが浮かんだが、迷いは一瞬だった。
無言で近寄ると、後ろに立って両手を縛った麻縄を軍刀の鯉口で断ち切った。
Without saying anything, I got close to him & cut his tied rope.
自由にされた意味をはかりかねたのか、腰をついたままあとずさりしてじっと私をみつめてくる。
Looked like he didn't understand what the meaning of my action..
私は、黙って池の水を指し、急いで立ち去ろうとした。
I pointed the water near in the pond

何か呼びかけてくる。
He asked..
「ワッチャネイム・・What's your name?」
ずっと見つめてくる眼が涼しい。His eyes were beautiful green..
まよったが、
「ドクター・ヒダ。」I answered, "Dr.Hida."
と答え、背をかえした。
then I immediately turn backed him and went out that place...

戦争はまだ続いていた。

捕虜を無断で放つことの意味が、私の胸を、早鐘のように打ち続けた。

Names, words, sentences, & stories originally come from the ground, and on the strong ground, the same type of stories (human's emotional powers flows) often be repeated. Close to the military center, Dr.Hida rescued POW. & in “A-bomb Drawings by Survivors”, there is a similar picture drawn by Mr.Mori(). President Obama hugged with hibakusha, Mr. Mori(), the same name…so in this sense too, the reconciliation of US & Japan is almost in certain. 


天守閣の残骸を背に、司令部があった。
天幕一張あるわけではない。
全身を包帯に包んで眼だけの高級将校が石垣にたてかけた担架に身をもたせていた。
そのまわりを血をにじませた包帯姿の将校らしい数人がとりかこんでうずくまっている。
一人が奉持する房だけになった軍旗が、辛うじてその一団の権威を誇示していた。
その前に、整然と並んで腰をおろしている集団が報告をしていた。「西部第〇〇部隊、総員1千八百何十・・。現在4名、死者多数、状況は不明・・。」
「西部第〇〇部隊、総員1千何百何十・・。現在6名、死者多数、状況は不明・・。」
どこまで聞いても、現在の数が10名を超える報告はない。
広島陸軍は、文字通り消失していた。
そこにいるすべてのものが傷つき、焼け爛れてすさまじい形相をしている中、汗とほこりに汚れているとはいえ、一通り整った身なりの私の存在は異様にさえみえたに違いない。

最後に報告の番がまわった私に複雑な視線が集中する。
「どこにおった。」と問う声に、私は手短に戸坂分院の状況を報告した。
陸軍病院の総員は、入院患者を含め1600名は超えていたと記憶する。
その中で、生き残ったのは、私と戸坂分院の軍医3名、下士官、兵、看護婦、計30名前後、あとは一切消息不明だった。


捕虜の縄を切ったうしろめたさがとがめて、治療の多忙を口実にわたしは早々に城を離れた。


5日もたつと、死ぬほどの人たちは大方が鬼籍に入り、火傷に限って言えば少しずつ解放に向かうきざしが見え始めていた。
ほとんどのものが全身にガラスの破片創をともなっていて、目をそむけるような凄惨な容貌を呈していたが、火傷の深度は比較的浅く、見た目よりは回復に期待が持て始めていたのである。

治療といっても、やっていたのは火傷の処置と、外傷の手当だった。
消毒らしい消毒もできない野外での荒っぽい処置にしては、意外に化膿性の炎症がほとんど起こらなかった。
その代わり、身動きできない重症者の傷口に、血を求めてハエが群がり、眼といわず、鼻といわず、真っ白な大きなウジがはいまわっていた。
「気持ちが悪くても、ウジはとらないように。」という指示が出された。膿をきれいに食べてくれていたのである。



異変はまさにそんなときに起こった。
民家の重症者を歩いて処置してまわっているうちに、不思議な症例にぶつかった。
昨日から高熱が続いているという。
昨日までは笑顔を見せて、火傷の清拭をする看護生徒に冗談をいうほど元気だったのが、一日で症状が激変した。
健康な皮膚に紫斑が見える。
口中の扁桃腺と口蓋粘膜が真っ黒に壊死を起こしている。
扁桃腺や咽頭粘膜に炎症があれば、高熱の説明はつく。
しかし、全身の紫斑と口内の壊疽性の変化の見当もつかなかった。
そのときは、とりあえずの処置をして、次の農家へまわった。


9日の夜、本部へ帰りかけた後を飛ぶように衛生兵が追ってきた。
「大変です。〇〇が下血しました。」
先日発熱し、紫斑が出来ていたものだと知り、すぐ引き返した。

ふとんから畳にかけての血の海のなかで、患者はもがき苦しんでいる。
下血だけではなく、目じりや鼻や口内からも血が噴き出していた。
苦し紛れに手をあげた患者の5分刈りの髪の毛が、掃き落としたように抜け落ちた。
聞いたこともない、見たこともない症状に、足がこわばり、手がわなわな震える。
本能的に脈にふれたが、あるかないかのかすかな響きしかない。
刺したリンゲル針を守って必死に手足を押さえる看護生徒の顔色も蒼白だった。
首を振って、ごぼっと血を吐いた動きを最後に何をする間もなく、患者はこと切れてしまった。

生まれてはじめて見る凄惨な死に様にぶつかったのは私一人ではなかった。

担当地域を巡回して診療にあたった軍医たちの報告の中に似たような症例がいくつかあって、あれこれ意見を述べあっているあいだに、急変患者が多発しはじめた。


人々は5人、8人と、時を限ってまるで申し合わせたように同じ時刻に発病し、あい前後して死んでいった。

そのことは、爆心地を中心にした同心円状で、等量の放射線をあびた人たちが、ちょうど放射線をあびせさせられたモルモットが、医学と原子物理学の教える法則通りに発病し、死亡するのと全く同じ経過を示したにすぎなかった。

しかし、その当時のわたしたちには、大本営の発表した新型強力爆弾という言葉が、原子爆弾を意味しているとは知るはずもなく、ほとんどの症例に共通する腸管出血を手がかりに、チフスと赤痢を考えていたのである。

やがて、呉の海軍無電室が、「使用したのは原子爆弾である」とのアメリカが伝えるのをきいたという話が伝わってきて、疑問は一瞬にして氷塊した。


いままで説明しきれなかった一連の不思議な症状が、急性放射能症による造血機能障害ということで、一切解決するのである。

担当した地域を毎日巡回して治療をするうち、ひどかった火傷や外傷がよくなって、時には笑顔をみせるようになった負傷者たちが、3人、5人と毎日のように死んでいった。

かいがいしく立ち働いてくれた人たちもかえらぬ人となった。
とりすがって、死んだ子供の治療をせがんだ若い母親は、数日前、細い道ですれ違った折、わたしの事を覚えていて両手にバケツにもったまま深く頭をさげた。
みにくく半面を焼いた顔に、光る涼しい眼の色をみて、すべての子供を殺された悲しみに耐える健気さに打たれたばかりなのに、彼女も子供のあとを追って、逝ってしまった。

やがて、815がきた。

雑音の鳴るラジオから、ようやく聞き取ったいくつかの言葉をつづって、我が国が降伏したことを知ったが、そのことの無念さよりも、遅すぎた決断への腹ただしさが先にたった。

軍医といっても現役将校の端くれ、戦いを非勢に導いた責任の一端は当然負わねばならない。

医師としても、なすべきことがまだ戸坂村にはあまりにも多すぎた。

発病から死ぬまでの時間に少しずつ長さが加わってはいたが、「原爆病」による死亡は少しも減る様子はなかった。


焼き場は、夜を日についで焔をあげていたが、ひきも切らぬ犠牲者の数に追いつけず、順番を待つ遺体が、ウジをわかせたまま、あぜ道に並べられていた。


9月にはいり
「もう人体に害なし。爆心地汚染度は急激に減退」と、新聞の見出しに見る頃、残留放射能による犠牲者が出始めた。

大きな農家の離れに、下肢を骨折して動けない被爆者がいた。

他県から広島県庁への転勤で、4月に単身赴任してきたばかり。
夫人が主人の安否をたずねて広島に入り、焼け跡を何日も探して歩いたという。

方々の収容所や治療所を丹念に訪ね歩いて、最後にこの戸坂分院で主人に会うことができた。

その夫人が、突然倒れた。

まめによく看病する、いい奥さんと評判だったのにと、そんなことを話しながら巡回診療のついでに立ち寄って、思わず背筋が寒くなった。

毛布を胸までかけて横たわっている夫人の白い頬すじから胸元に不気味な紫色の斑点を見たのである。

まぶたの裏も、爪床も、恐ろしいほどの貧血だった。

それから、夫人がたどった症状の経過は、直接、市内で閃光をあびた被爆者と全く同じだった。

身動きできない主人の必死に名を呼ぶ声も届かず、抜け落ちた黒髪を鮮血に染めて夫人は絶命した。

まるで、それが合図でもあるかのように、何日もたってから広島市内に入った人たちの中から貧血や下痢や嘔吐など、いわゆる急性放射能症状がではじめた。

もちろん、そのすべてがすぐに死の転帰をとったわけではない。

しかし、閃光にも爆風にもまったく縁のなかったひとたちが、ただ、爆心地近くに入っただけで発病してくることが、当時の私たちにはどうしても理解できなかった。


納得できない典型的な例が、広島に赴任して知り合い世話になった中村さんの例だった。

中村さんは、無類の釣り好きで、86日の朝は、瀬戸内海に船を出して無心に糸をたれていた。

夫人は、爆心地から1.2キロの新築の自宅で洗濯物を干していた。

自宅は至近距離にもかかわらず倒壊をまぬがれ、夫人はかすり傷ひとつ負わなかった。

海で釣りをしていた中村さんが、広島のことを聞いたのは6日正午近くだった。

半信半疑で汽車に乗って自宅に向かったが、五日市で降ろされてしまった。それから先は不通だった。

線路づたいに広島へ歩いて着いたのは、夜空を真っ赤に火柱が染めていたころで、人づての噂をたよりに、水の中でふるえている夫人を見つけたのは7日の朝だった。

二人は戸坂村の知人の家で休憩し、そこに私がいるとも知らず、太田川上流の三次の親戚を訪ねた。

戸坂小学校が正規に授業を再開する、ということで、戸坂分院閉鎖の方針が伝えられ、移転先の交渉で忙しく駆け回っていた私の前に、
突然、その中村夫人があらわれた。

やつれた姿にだれとも見分けがつかなかったが、その口から、ご主人の死を告げられて2度驚かされた。

聞けば、発病から息を引き取るまでの経過は、まさに急性放射能障害症状そのものだった。

彼は、爆発の瞬間、60キロも離れた場所で釣り糸をたれていたのである。


爆心直下にいた夫人をさしおいて、なぜ彼が死ななければならないのか、
どう(医学・科学的)理屈で説明しても腑に落ちる話ではなかった。


10月も終わりに近い、肌寒い夕刻、広島陸軍病院戸坂分院の患者と職員の全員が、大八車をつらねて宇品の桟橋に到着した。

一時は万を超したといわれる戸坂村の被爆者も、多くが身寄りを求めて各地に散り、少なくない人が戸坂の空になびく煙と消えて、今、病む身体を毛布にくるむ100のいのちが海をわたって、新設される国立病院にいこいの場を求めようとしている。

三隻の機帆船が桟橋に船体を横付けにして荷積みが始まった。

甲板に立って、暮れてゆく夕凪の広島湾に名残を惜しむ私の胸中に、広島を離れても、離れることのできない途方もなく大きな「きのこ雲」の影が去来していた。

86日午前815分を境にし、私が見、聞き、体験した一コマ、一コマは、たとえ、長い年月の間に記憶から消え去ることがあっても、肉体の奥深くに刻みつけられた悪魔の火の爪痕とむすびついて、原子爆弾への怒りは永久に焔となってこの身を焼き焦がすであろうと思っていた。

サイパン、硫黄島、そして最後に原子爆弾と、死ぬべき機会を三度もかわし得たのは偶然にすぎない。


もし、その答えに何らかの意味があるとすれば、それはすべて、明日からの己のありようにかかっていると覚わらずおえない。


(「あとがき」より)

最後を原爆でしめくくられた広島陸軍病院での軍隊生活は、いろんな意味で私のその後の人生を方向付けたといっても過言ではありません。

病人のための医師として懸命に、真剣に生きてきた私に、もし一貫しているものがあったとしたら、わたしはその糸口をあの地獄の火の中で教えられたと信じています。

それは、戦後の私の生活のどこを振り返っても必ず、そこに大きく影をおとしている「原点」のようなものでした。


(「自分の被爆体験を書く」という)何度も試みながらどうしても果たせなかったのは、多忙が理由というより、何を書くかに迷いがあったからでした。

今回もお断りの言葉をあれこれ口にしている間に、ふっと、その迷いがはずれたのです。

理由はわかりません。

心が決まると筆は意外にすらすらはこびました。

筆をとった3月というのは、今までの私の時間の中で一番多忙なときだったかもしれません。

人間、多忙になればなるほど、やりたいと思っていたことが無性にやりたくなる、そういう衝動にうごかされました。

書かれたものの価値はいっさい考えないことにしています。

お読みになった方が、核戦争阻止と、核軍縮、平和への意欲をかきたてるうえでなにがしかのお役にたてればさいわいです。

今日、私ともうひとり、二人の被爆者は、原爆の実相とその恐ろしさを全世界の人々に訴えるためにオーストリアに飛び立ちます。


198248日)




When you imagine  what  hibakusha  experienced, facing unimaginable explosion & being survived after as a human being, you understand they were inevitably with max emotion & significantly experienced what Jung said "synchronicity" occured everywhere in a very limited area with huge energy & emotions. In  addition to that, you might  notice human's emotional flows are parallel to energy flow of  underground magma of our planet. 


Dr.Hida passed away in his age of 100.
Nuclear and the Humankind cannot Co-exist Nuclear Victims Forum  / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden