Thursday, May 25, 2017

核(兵器・原発)惨禍を「技術の歴史」の枠から考えてみる
Considering why 'Nuke Disaster' happened, 
throughout the long history of technologies.


現在、世界が「つながる一歩手前にいる」と考えている。
たとえば「戦争」という時代からの脱却点にいる、とする。

米国は、世界史の中での第二覇権帝国である。
第一覇権帝国はローマである。
この二つの歴史上の覇権帝国の底辺を太く脈として流れているのが「キリスト教」である。
一神父性教の代表的宗教である。
America is the second Empire of the world history.
Rome is the first Empire.
And these two Empires have the same religious base flow at the bottom. 
That is Christianity.

第二次世界大戦で米国が戦勝国になる「戦運」をわけたのは「ミッドウエー海戦」というのに異論のある人もあまりいないだろう。

そしてその戦争の終わりに広島と長崎に原爆が投下された。

アメリカという国は、(キリスト教文脈における)世界の第二「覇権国家」となり、
そこには常に「武力」としての「核」が存在した。

長崎は「キリスト教」の街であり、その土地の宗教性は江戸時代から脈々と続いている。

その前をさかのぼると、日本における「キリスト教」は、ザビエル宣教師の布教、信長、秀吉などとつながり、鉄砲の伝来と戦国時代(武器と戦争)とも密接に関わっており、それは西洋の大航海時代(「大洋航海技術」)と並行している。
Christianity reached Japanese islands because of the technologies of 'Sailing across the Oceans'. 
It is the same time, the ways of making 'teppo(鉄砲・guns)' were brought to Japanese islands.

500年前となる。
It was about 500 years ago from now.


その時代、日本は、戦国時代で、秀吉は利休に切腹を命じ、徐々に独裁色を強め、いままでアジアから文明の影響を受け、そちらを高度な文明を持つ大陸として崇めていたのに、そこ(朝鮮半島)へ逆に攻めに入っていったのである。

In those days, Shogun Hideyoshi met Christian missionaries several times, however his greed toward Power to control everything become  stronger gradually, then he become to be afraid of losing his power because of Christianity, then he prohibited Christianity and ordered Rikyu (a spiritual leader of Zen at that time) to kill himself, and invaded Korean Peninsula.

これは、キリスト教的なものが「西洋の航海技術」によって伝えられたがため、思考方法におけるバランス的なもの、「どちらを上とみるか」という視点が東西が逆になった影響が非常に大きいと考えている。

This makes me think like this, ‘Western ways of thinking’ was brought to Japan with Christianity and technologies of making guns and others. Those things changed ‘people’s ways of thinking’ drastically. Until then, Japanese people thought China and Korea located in their East were the places where  they learn the ways of thinking, civilization and technologies, but Western culture reached because of the technologies of Ocean Sailing. The direction, people looking at and respecting at, become opposite, suddenly, from East to West, because new technology looks always shining at first. Then they lost their balance of culture and ways of thinking. Hideyoshi had lost the bottom of his beliefs, so he prohibited Christianity  as religion and killed Spiritual Leader Rikyu. That made him, a dictator.



また、その同時期、500年前というと、やはりこれも当時の「大航海技術」により、コロンブスがアメリカ大陸に到着し('500 years ago' is approximately the same time when Columbus reached at American continent.) 、その後、続々とヨーロッパから移民が入植し、アメリカが国として建国された時期と並行している。

That time and later, was parallel to European people who believed in Christianity immigrated into American Continent and America as a nation was finally founded.

原爆ドームや慰霊碑などのかたちが、広島が「ドーム型」「丸型」に比べ、長崎の慰霊碑は、仏教の影響を受けたものと、十字が混在したような「ふたつのイメージ」を受けないだろうか。


死者を悼むことと「宗教性」は深く関連しているが、広島の場合は「円型」長崎のものは日本が歴史上外国からどのような宗教性をとりいれてきたか(仏教・6世紀、キリスト教・16世紀)が映し出されているように見える。

Condolences toward dead persons were strongly related to ‘religions’ everywhere, and I might think that comparing to Hiroshima center cenotaph, its shape has  ‘round’ image , Nagasaki cenotaphs images are reflecting what kind of religions Japan have gotten inside through its history from outsides. (6A.D. Buddhism, 16A.D. Christianity)

現代のわたしたちの生活は、日本人のものでさえ「キリスト教」をベースにした思考方法、現在ある技術発達のベースとして大きく影響を受けていることは、大きな枠で考えるとそうである。
(ちょんまげも着物も「普段用」ではもはやない)。

それらは、客観的思考、科学的思考から生み出されたものであり、またその思考方法も、その思考を支える言語も非常に「切れる」

そしてその技術を、ほぼこの地球全世界の人々が受け入れ、恩恵も受けている。

ちょっとみわたして、ある身の回りの工業製品の数を数えれば、そのことにも気が付くだろう。

だから、一神父性教が悪い、英語が・・悪い・・自分たちは違う、といって、自分だけをほめたたえ、米国・アメリカに対する不平の域を出ないのでは、

そこから生み出された技術によってもたらされた生活の質の向上の恩恵をふんだんに受けながら、
「オヤジはゆるせん。あんなやつは死んだ方がいい」と反抗し、
一方で生活費はどっぷりたよっている世間知らずの息子の思考域を出ない。

その米国が「核なき世界」をとなえた
2007のはなしである。
In America, very significant four persons started to consider and focused on "World without Nuclear Weapons."

「大航海技術」によって日本に鉄砲がもたらされ、またその「技術」によってアメリカという国が建国された、500年後となる
From long history of technologies, it was 500 years later since Ocean Sailing technologies brought 'teppo鉄砲' and 'Christianity' to Japan, 
and  the same technology  made pilgrims in Europe go across the Oceans and built their own country as America.

その間の技術発達の大きなものとしては、航空技術がある。
約100年前になる。
Airplane Technologies was invented about 100 years ago.

世界大戦はその技術をもとに戦われたといっても過言ではない。
反対にその技術によって、戦場が「世界規模」になったといっていい。
The 'airplane technologies' expanded "War Size" much bigger, and then "wars"  become "the World War" scale.


核技術も、航空技術と同じくらいで(ベースが数学・物理なので)、レントゲン博士がエックス線を発見したのが1895年。
ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は、航空機に核爆弾をつんで武器として使用した(1945年 約70年前)ということになる。
History of nuclear technologies is almost the same as airplane’s.
(because its  basement is on physics and mathematics)
Dr.Rontgen discovered the X-ray in 1895.
"Hiroshima and Nagasaki" was in 1945, 
about 70 years ago.(not so far distant past)


「核なき世界・核廃絶」について、その論旨を主要メンバーがウオールストリートジャーナルに載せ、非常に話題になった。

そのうちの二人が、レーガン政権時のシュルツ国務長官と、クリントン政権時のペリー国防ぐ長官である。

とりもなおさず「核廃絶」は、広島・長崎の被爆者たちにとっては、もちろん悲願だろう。

ただ、悲願はするがそれを実感できるには長い道のりが横たわっているだろう、どんなめどがつくのかは想像できない、というのが70年前の人々が直観したことでもある。

広島・長崎から60年を経過し「核廃絶」を、製造した側で最初に唱える4人が出てきた。
これは画期的なことである。

その一人であるウイリアム・ペリー氏は、19歳のときに日本に配属され、日本の敗戦の様子をその目で見ている。

そしてその「破壊」の様相に、発達した「技術」と「戦争」がもたらす、きらびやかさの反対にある「もう一つの側面」に衝撃を受けている。
One of the four persons who started to say "World without Nuclear Weapons," Secretary William Perry says about the impression of defeated Japan in 1945,
 "What I saw in Tokyo and Okinawa, changed my view all together. About the glamour and glory of war."

実際の体験がもたらす衝撃や直接の感覚というものは、いくら言葉を並べて説明しても、語られない、言葉を超えるものがあるし、それでも深く人間の心理の奥底に食い込んでくる。

それは、戦争のもっとも先端部分で戦った名もなき兵士たちや、原爆の被ばく者たちの経験にも通じる、勝敗を問わない、同じ「人間」として共有できるものでもある。
As persons standing on the same ruins, as humankind, beyond allies or enemies, people can share the same feelings, imagination and co-passion because its devastated scene would bring same imagination that we are the same species which  go through same life and death.


「核兵器」というのは巨大兵器なので、おのずと機密事項が非常に多くなるだろう。
それでもその巨大兵器による「傘」という概念、核兵器によって「安定をもたらす」という概念が通用していたのが、そのころまでではないかとも想像する。

一方で、安心の名のもとにさらに奥深い「最先端技術の闇」に置き去られていたのが「核兵器」よりも人々がさらに安心や信頼をおいていた「原発(Nuclear Power Plants)」である。

チェルノブイリ事故は1986年に起こった。

スリーマイル事故は1979年で、その事故の12日まえに映画・チャイナ・シンドローム(China Syndrome)が公開されている。
この一件だけみれば、それは偶然だろう、と言い切れるかもしれない。

けれども「フクシマ」は、予知している作品が、その10年前からであり、とても多い。
人間種の非常に深いところで危険信号がもはや灯されていると考えざるおえない。

I can't help but think that 'Alarming Bell' started ringing for human beings as a  species that is about to extinct since Fukushima in the bottom of our unconsciousness.


現代文明のどこがおかしいのか、というとそれはあまりにもの「死」の概念の否定にあると思う。
生まれたものは死ぬのが当然の流れなのだが、そのこと、「死」があたかもないかのごとくの「なにものか」にしがみついているところではないか。
死ぬのがあまりにも怖い、「死」に対する不安感が根っこにあるがための、その逆の「永遠の命」であったり、「永遠の若さ」、「永遠のエネルギー」を渇望しているのではないか。

あたりまえであるはずの「死」を遠ざけ、すべてになぜか「永遠」をつけたがり、現状とは逆の「オールマイティー感」を誇示せざるおえない異常な「力」への渇望がある。

そして一方にあるのが、口にだすのもはばかるほどの「大量破壊・殺戮の闇」なのである。

これから先、同じ地球に住むひとり、ひとりの人間が、意識を向けなければならない方向は、「死ぬこと」と「死者」ではないかと思う。

生まれてくることも大変なことであり、そこには喜びも苦しみもすべてあり、そこにあるのは「明るさ」だけではない。
そして、産まれてくれば、そこから「死」というゴールをめざすのも必然であり、それは他の動植物との差異もない。

また「死ぬこと」は敗北でも暗闇でもなく、それは生まれたときにあったと同様の苦しみと、それ以上の深い心の動きが、死ぬ者にも、それを看取る者たちにもあるはずである。

死をさけるためばかりの「技術開発」をめざしても、その「技術の歴史」を数百年眺めれば、そこには多くの犠牲と死を伴ってきた結果があり、それらを打ち捨てて、いくら見ないように隠しても、これからの「技術」が、いま「生きるものたち」に「生の永遠」を保証するものでは決してない。

「技術」は常に「死と破壊」とともに人間とともにあり、「便利さ」
というのは必然「名も亡き多くの死者」の犠牲になりたってきたものである。

そして、これ以上の技術、特に武力開発は、私たち人間という種の全体の「突然死」をもたらすものである。

そうであるならば、もっとひとり、ひとりが「自分の死」「他者の死」に思いを馳せるべきである。

先祖の死、家族の死、自分の死、他人の死、見知らぬ人の死、多くの死が、現在の私たちのもとへと続き、私たちの「いまの生」を支えてくれている。

「生」と「死」は、どれも、たとえ名もなき者たちのものも、連綿と続いて切れているものはひとつもない。


In Japan, actually the culture of life and death and ways of thinking were quite different from Westerns’ and that of ours nowadays’ too.

Before Buddhism entering, people believed in “everything has life. Even one stone or one tiny pebble has soul in it. Plants, woods, grass, seeds, trees,…everything”

After having Buddhism Belief, even though things had been mixed up, and still now we have Bon Festival every year.
Many know that we think this means every year we welcome dead persons and dance together.

People in old days here, did not think life and death separate so clearly.
Even if a person die, soul will not, sometimes dead person’s soul stay various places or come inside myself.

But after having Western Style thinking ways, these cultures were faded away gradually, but still familiar somewhere in our hearts and minds.

During 20 century, it is no doubt that technologies advancement was marvelous.
But it was so shining and cutting edged that people become hubris like Hideyososhi become,or like Ms. Alexcievich says

If you think, for example, that all dead persons are still there and they are looking at you.....
They are related to ourselves.
Everything is connected.
If you notice, you will find out.

So, when you try to do something secrecy behind the scene, 
your ancestors, the Sun of God, and a lot of things are looking at what you are doing..... 

You may not and can not do so much inhumane things, so easily.


アインシュタインは、「核兵器」は「人間のものの考え方」以外のすべてのものを変えてしまった、と語った。
Einstein said, 
“Due to the advent of the nuclear bomb, everything has changed except the way of motive of thinking.”

それでは、次に変えるのは、その「人間のものの考え方」だろう
So the next, we have to change the ways how we think about "our life and death".

Experiences of Deep Consciousness / To ponder the power of splitting of an atom
Nuclear and the Humankind cannot Co-exist Nuclear Victims Forum  / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden 










Monday, May 1, 2017

元気に生かされとるのは、語り継ぐため 
Survived for succeeding to tell stories

篠田 恵
Megumi Shinoda  (12 yrs. 2.8 km away from H.C.)




(中国新聞 201751日 「記憶を受け継ぐ」より)

原爆投下から2か月余りたった194510月、やせ細った弟の晴樹ちゃんの遺体は、大芝町(現西区)の自宅近くの河原で焼かれました。

「お経もあげられず、今考えると、本当にかわいそうなことをした」と篠田さん。

けれども、当時は特別な感情をいだきませんでした。

「毎日のように、あちらこちらで遺体が焼かれ、感覚がまひしとった」からです。

広島女子商業学校の2年生だった篠田さんは、86日の朝、同級生と鶴見橋付近で建物疎開に出る予定でしたが、寝坊をしたため作業を休み、自宅で弟と折り紙をしていました。

晴樹ちゃんは、おしゃべりが上手になり、かわいいさかり。
「おばちゃん、たべんちゃい。」
石臼を借りに来た近所の女性に、弟が炒った豆を差し出した瞬間、ぷわーと部屋に焔が入ってきました。

爆心地から2.8キロ、障子はめらめらと燃え、畳がすり鉢のように落ち、不気味な静けさがしばらく続きました。

「恵ちゃーん」
母の声で我に返った篠田さんが立ち上がると、縁側にいた母と弟は、腕や足が赤くはれ、ところどころ焼け爛れていました。

爆心地そばの広島市信用組合(現広島信用金庫)の、左官町支所へ出勤したお姉さんの幸代さんが戻ってきません。

翌日、恵さんは、姉を探し求めて父と一緒に市内を歩き回りました。

相生橋のあたりは、丸焼けになった遺体がごろごろ転がり、黄色い贓物が飛び出した馬の死体も。

弟と同じくらいの小さな子が、母親らしき遺体のそばでじっと座っていました。

「世羅さんでしょ!」
大八車に横たわった、全身大やけどの人から声を掛けられ、よく見ると、同じクラスの友人でした。

鶴見橋一帯の建物疎開作業中に亡くなった女子商の生徒は262人に上る、という資料もあります。

あの人はどうなったのか、ずっと心にひっかかっています。

戦争が終わっても、弟は、飛行機を見るたびに、
「姉ちゃんをかえせ!」と叫んでいた晴樹ちゃんは、9月からひどい下痢に苦しむようになり、
1022日、母の腕の中で息を引き取りました。

父親は職を失い、原爆の後遺症か、顔に皮膚病ができた恵さんは、女子商を退学。
2年おくれで、安田女子高に入りなおしました。


先生の薦めで「原爆の子」(長田新編)に手記を載せたことはありますが、22歳で結婚し、3人の子育てに追われる中、次第に被爆の記憶から距離を置くようになりました。


高校時代の恩師で被爆証言を続けた沼田鈴子さんとも、長年、親交を深めました。

それでも自分の体験を語ろうとはなかなか思いませんでした、
「建物疎開を休んだ自分には資格がない」と思っていたからです。

数年前にすい臓がんを乗り越え
「元気に生かされとるのは、語り継ぐためじゃ」
と強く感じるようになりました。


「戦争があったから原爆が落ちた。戦争は本当にむなしい。」

体が動く限り、命の大切さを伝えていくとともに、今も見つからない姉の遺骨を探し続けるつもりです。

(Excerpt from ‘Children of Hiroshima’ edited 
by Dr. Arata Osada 長田新)

A lady, who was one of our neighbors, had come over to borrow
a stone mortar (石臼;a cooking tool for pasting food).

My mother was talking to her on the veranda.

I was in the living room, leaning against a post and folding papers for my three-year-old brother.

I had roasted some beans for my brother that morning, and he was eating them, one by one, out of a dish.

He went over to the lady, holding the dish of beans,
and said to her, ”Have some more beans…”


At that very moment, the bomb was dropped….


The paper sliding doors began to burn.
I thought, ‘Water!’ and ran to the kitchen.

That moment, I was knocked down by the ceiling boards, plaster, pictures and things that came falling down.

By the time I could get up, the fire had already been put out by the blast following the flash.

There were a few minutes of ominous silence.

“Megumi-chan!”  “Megumi-chan!”

I came to my senses at the sound of my mother’s voice and rushed into the air-raid shelter in the back garden.

My mother, brother, the lady in my neighbor, had been burned so badly on the right side of their bodies that the burns were blistered.

I was shocked and ran back into the house to get some medicine.


This was the first time I saw how badly the house had been damaged.


Though, our house was about 2 and half miles(4km) from the center of the explosion, almost nothing but the uprights were left of it.

There was a huge hole in the roof, all of the ceiling boards of the sitting room were gone, and the ones in the next room were snapped upward.

The sliding doors were blown down, and the plaster had come off the walls.

There were broken glass and plaster on the tatami floor.

The sewing machine, which had been in the hallway, was on its side in the middle of the sitting room.

Some bed quilts, which had been hanging out in the sun on one side of the house, had been blown through the two rooms to the kitchen.

My mother stopped me from going inside the house.

“A bomb fell here. It’s dangerous to go in.”


At the time, each of us believed that our house had received a direct hit.

But I wanted to treat my brother’s burns as soon as possible, so I went inside, moving cautiously, picking my way from the threshold. 


Fortunately, the medicine box was undamaged, and there was medicine for burns in it. 


Shortly after that, we heard loud voices from the street in front of the house, and we all went to see what was happening.
There were a lot of people gathered around the neighborhood air-raid shelter.

My neighbor’s house was on fire; about eighty percent of it had already burned down.

She was running frantically around her house, shouting, “Mother must still be inside!”


Once we calmed down a little, we started worrying about the people in our family who had gone out to work.

Two of my older sisters were working in a company far out in the suburbs of the city, and were sure to be all right, but my father was at the Clothing Depot, and my other elder sister was at the Credit Association in Sakan-cho.

Since she could get home from there in less than an hour, we knew that something must have happened.

Either she had been injured, or not allowed to leave, or …worse…
Fate chose the last.

The life of my 19-year-old sister and that of the Credit Association Building ended together.


About six-thirty, we got word that my eldest sister was all right, and my other sister got home around seven o’clock.
I asked the people coming by, on their way to a safe place, about the Credit Association Building and the Clothing Depot, but they had no time to be concerned about other people.
I could only pray for the safety of my father and sister.

My father got home about ten that evening.
I was so happy that I hugged him tight and cried.
It was all I could do to say, “Father, Sachiyo hasn’t….”
He must have known already.
There were tears running down his cheeks.

That night, we and the neighbors put straw mats on the ground around the air-raid shelter and lay down on them.

The stars were out and the sky was beautiful but we were not able to sleep because air-raid sirens kept going off.


The morning of the seventh came.
My head was heavy from lack of sleep.
My shoulder and thigh-hurt badly.
Something must have hit them when the house collapsed, but I didn’t say anything about it and went out with my father to look for Sachiyo.
Only a block from our house, everything had been burned down.
We could see the twisted girders of the Industrial Exhibition Hall and the Fukuya Department Store.

Here and there, electric power poles were still burning, and trees smoldering.
We walked through the heat, around electric wires and burned trees, and finally got to Yokogawa.

We thought that Sahiyo might have retuned to the main office.
We walked in, but I immediately staggered back, covering my eyes.
Was this the meaning of “hell on earth?”
There were burned bodies, eyes lifeless, all over the floor and on the counters.


My father walked among them shouting,
“Sachiyo! Where are you? Is Sachiyo Sera here?”

But we could not find her.


From Yokogawa we went on to the Tokaichi area.
There were many bodies on the ground that had been burned black.
There were the bodies of a soldier and his horse, and of a mother and her baby.
But we didn’t find any sign of Sachiyo.

We stopped and prayed in front of the Credit Association Building, where we thought perhaps Sahiyo had died.
The prayers we had said before, for “victory”, had brought us hell.

We learned that the juice of cucumbers was good for burns, but at the time cucumbers were very difficult to get.
The local doctors, whose homes and clinics had been destroyed, set up an emergency treatment center at the Ohshiba Primary School.
But, of course, none of them knew the best way to treat the bomb sickness, when its true nature was unknown.


Wherever he heard an airplane, my three-year-old brother would run out into the street, his arms and legs all in bandages, and shout, “Bring back my sister! Bring back my sister!”


There was no electricity for many days. When morning came, a newspaper with printing you could hardly read would be delivered.

Bodies were cremated every day, in the bamboo grove near the house, on the river bed, or in the corners of fields. It made a horrible smell, and sometimes even the white smoke would come around our house.

The burns of my cute little brother took a long time to get better.
But even so, he was just like any boy, wanting to go out and play with the other children on the sand-banks.

He took a long stick and poked holes in paper doors we had just patched.

Other times, he would make us laugh by taking piece of paper and copying what we were doing, and make gestures and sing something we could not understand.


The food situation got worse.
Often we had only pumpkin from morning to night.
Once my brother said, “Mummy, I hate pumpkin,” and refused to eat it, and my mother slowly turned away and wiped away her tears.

My brother’s burns finally got better, but he began to suffer from diarrhea from the beginning of September.
By that time, even we knew that diarrhea was one of the symptoms of radiation sickness, but they only treated him for dysentery at the clinic.
He kept getting worse.

It was terrible to see him suffer.


Typhoon hit our half-wrecked house.
Twice there were floods.
My brother, who had always been high-strung, was convinced that terrible things came out of the sky and began to be afraid of looking at the sky.

“The stars are beautiful, look at them,” I would say, but he would never look up.
Whenever there were typhoons, or flood waters came near, he would stay in my mother’s arms, trembling.

October came and it was cooler in the mornings and evenings, but my brother got worse.
He could not get out of bed after the tenth.
We went to the country to look for more nutritious food for him, but all we could find were a few eggs.

My little brother, who had cursed the airplanes that had taken the life of his loving sister, and who had feared even to look at the sky, died in my mother’s arms on October 22, without a chance to be treated by a doctor.

The neighbors cremated him on the river bed.
It was done simply and plainly.
Just a little bit of white smoke rose up….

The cold winter came, making people living in the galvanized iron make-shifts suffer.

The weather seemed even colder because of our empty stomachs.
Nevertheless, spring came again.

It had been said that for 75 years, nothing would grow on the ground that had been scorched, so when grass started coming up that spring, ever one’s spirits revived.

Stands selling rice soup overflowed with crowds of unemployed people from morning on.


The sound of hammering began to reverberate across the razed city.

Hiroshima 広島 ヒロシマ ひろしま 
Nuclear and the Humankind cannot Co-exist Nuclear Victims Forum  / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden / Ave Maria

Tuesday, March 21, 2017

肥田舜太郎医師 死去 100
被団協顧問 被爆者治療に尽力
Dr. Hida passed away.
In his age of 100, on March 20th(spring equinox) 2017,
after uncountable endeavors to  assist Hibakusha
                                  

中国新聞 2017321

広島で自らも被爆し、被爆者の治療を続けてきた医師で、日本被団協顧問の肥田舜太郎氏が20日午前82分、肺炎のため埼玉県川口市の埼玉協同病院で死去した。

100歳。岐阜出身。

194586日の原爆投下当時、軍医として広島に赴任しており、爆心地の北約6キロ地点にいた。

その直後に市内に入り、焼けただれてさまよう人らを救助するとともに、治療に当たった。

その後も、白血病などの後遺症に苦しむ被爆者たちにも寄り添い続けたほか、内部被ばくによって体がだるくなる症状を「ぶらぶら病」と呼び、危険性を指摘した。

「広島と長崎は今も生き地獄を見せて世界に警告している。真実を伝えるのが被爆者の使命だ」として、1975年に初めて原爆を投下した米国を訪問。

1989年までの15年間で30か国以上、150都市以上を
「草の根の反核語り部」として駆け巡り、原爆の悲惨さを訴えた。

原爆症認定訴訟では、原爆投下後に広島・長崎市内に入った被爆者について、ほこりなどを吸い、体内に入る放射性物質による内部被ばくの影響について証言をした。

2011年発生した東日本大震災による東京電力福島第一原発事故でも内部被ばくの脅威を訴えた。

2013年に都内で脱原発を求める集会に参加するなど、被ばく者治療の傍ら、核廃絶を求める発言を続けた。

元軍医で被ばく者医療に尽力してきた肥田舜太郎さんの訃報が伝えられた20日、ゆかりの人たちに悲しみが広がった。

「被ばく者支援に関わるものにとって精神的な支えだった。」

原爆症認定訴訟の支援を通じて十数年の親交がある広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の大越和郎事務局長(76)は残念がった。
「肥田さんは2009年に一線を退くまで約6000人の診察に当たったという。常に被爆者の立場に立つ人だった。もっと教わることがあったはずなのに」

日本被団協の田中てるみ事務局長(84・埼玉県新座市)は、1月にあった肥田さんの100歳を祝う会合に出席したという。
「すごくお元気で大変喜んでおられた。『100歳は通過点』とも言っていた。」と振り返る。

もう一つの広島県被団協(坪井直理事長)の、ちまき智之副理事長(75)は、「核兵器禁止条約」の制定交渉会議が27日から国連で始まることに触れ、

「ご経験を基に『核と人間は共存できない』と長年、訴えてこられた。まだまだ私たちに助言してほしかった」と語った。

322日 「天風録」)
体調が悪く苦しいのに人にわかってもらえなければ、誰しもつらい。
心まで病むかもしれない。
被爆者の中にも、だるくて動けない人々がいた。
原爆投下から何年も経ち、直接ピカにあっていない人まで・・。
「ぶらぶら病」。
誰とはなしにそう呼んだ。
怠け者扱いは悔しかったろう。
苦しみに心寄せたのが医師、肥田舜太郎さん。
自身も広島で被爆したあの日から被爆者の治療や救済に尽くし、100歳で亡くなる。
被爆直後、なすすべもなく大勢をみとった。
ぶらぶら病も原因さえわからない。
ある患者は診察中に頬杖をつき、やがて床に座り、しまいには横になった。
異常ではない「だるさ」と知るが治療法もない。
寄り添うしかなかった。
原爆投下後に入市して吸い込んだほこりによる内部被ばくが原因と知ったのは30年後。
放射性物質が長く体をむしばむのだ。
以来、欧米30か国以上を行脚して核廃絶を訴えた。
「誰も放射線をコントロールできない」と。

福島第一原発事故の発生時には94歳。
ぶらぶら病の発症を心配して、最晩年まで老いた身に鞭打って各地で訴え続けた。

「原子力は人間が扱える代物ではない」

遺言としてかみしめたい。

Wednesday, March 8, 2017

「核実験」ー被害隠しに光を」ー

中国新聞  201738

「息子は2度被曝しました」
長崎原爆による「被爆」と、ビキニ水爆実験による「被曝」の二十苦から、27歳で自殺した青年がいた。

19543~5月、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験。
船員23人が被曝した静岡県焼津市のマグロ漁船「第5福竜丸」の悲劇は世界に衝撃を与えた。

しかし、その青年が乗っていたのは高知のマグロ漁船という。
青年の母親の証言が、元教師山下正寿さん(72)のビキニ被曝を巡る、長い闘いの始まりだった。

85年春、高知県宿毛市の高校社会科を教えていた山下さんは、県西部で平和学習を行うゼミの顧問もしていた。

その年の課題は、広島・長崎への原爆投下40年。
有志の高校生とともに、地域の被曝者を調べる過程で、次男節弥さんを2度の核被害で亡くした藤井馬さんと出会う。

節弥さんは4589日、長崎で馬さん、姉と被爆。
その後、馬さんの故郷、宿毛市に戻り、家計を支えようと乗り込んだ漁船で複数回、水爆実験に遭遇したとみられる。

「第5福竜丸以外の船が被曝?」
衝撃を受けた山下さんと高校生はその後5年間で、元船員約240人に聞き取り調査を実施する。

その結果「きのこ雲を見た」「白い灰を浴びた」など数々の証言とともに、ビキニ周辺で操業した元船員が若い年齢でガンを患ったり、早世したりしていることが次第に明らかになってきた。
「これほどの被害がありながら、なぜ国は何もしていないのか」

ビキニ実験後の543~12月、日本政府が周辺にいた船を対象に実施した放射能検査により、東京など18港で800隻を超える船が500トン近い汚染魚を廃棄した。
その約3分の1が高知船籍と言われる。

32年間、ほとんど手弁当で調査を続けてきた山下さん。
「僕は猟師の生まれだから」
胸中には、猟師への思いがある。

山下さんの両親は、宿毛市片島と大分県佐伯市を結ぶフェリー乗り場近くで雑貨店を営んでいた。
山下さんが幼いころ、マグロ漁船の猟師が出港前によく駄菓子をまとめ買いに来た。
「猟師には、ほんとうにかわいがってもらった」と笑みをこぼす。

だからこそ、ビキニ実験後、彼らに起きた異変を覚えている。
首元に突然大きなこぶができた人、声が出なくなった人、「子供ながらに、これはおかしいと思った。
その答えを、山下さんは教師になり自身の調査で見つけることに。

85年当初から、山下さんと活動を共にしてきた、高知県四万十の元教師、上岡橋平さん(67)は「八方ふさがりになっても、山下さんから『これ以上の調査は止めよう』なんて言葉は聞いたことがない。」と振り返る。

高校生との調査が一段落した後も、山下さんはほぼ一人で聞き取りを続けていた。
「怒りでしょうね。こんなことは絶対許せないという憤り。その想いが人の何倍も強い。」

山下さんや報道機関の度重なる求めに応じて、厚生労働省が述べ556隻分の被曝を裏付ける資料を開示したのは20149月。
実験から60年もの歳月が流れていた。

この間、多くの元船員が亡くなったが、偏見を恐れ、何も語らず世を去ったものも少なくない。

「知る権利とか、生存権とか、国が守るべき権利を、むしろ国が妨害した。棄民にしたんです。」
ようやく手にした証拠の数々。

元船員や遺族ら45人は165月、被曝に関する証拠資料を政府が開示しなかった結果、米国への賠償請求の機会を奪われたなどとして、ビキニ実験を巡っては初の国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。

「放射能さえ浴びなければ・・」

原告の一人、高知県土佐清水市の元船員谷脇寿和さん(82)は30代で肝臓を悪くし、15年には肝臓と胃のがんで手術を受けた。
「働き盛りのころ、治療費で生活は苦しかった。しんどかった気持ちを国にわかってほしい。」と訴える。

山下さんも、国が度重なる開示請求に資料を隠し続け、精神的損害を受けたとして、原告に加わった。
1671日の第一回口頭弁論では「国による核被害隠しに光を当てる司法判断をお願いししたい」と意見陳述した。

1013日の第2回口頭弁論。
1986年に、政府が第5福竜丸以外の船の被曝について「資料は見つからない」と国会で答弁したことを巡り、国側は当時情報公開法もなく、知る権利は「抽象的な権利」と主張した。

原告側は「当時も公文書閲覧窓口の制度があった」と反論。

今後も国が故意に資料を隠してきたことの立証を続ける。

「奪われたマグロ漁民の尊厳を取り戻したい」と山下さん。

これが最後のチャンスだと考えている。

山下氏TPNW実現訴え / A Co-incidental Destiny of Japanese Go-En /