Friday, March 30, 2018


松原美代子さん 死去 85歳(2018210日)
Miyoko Matsubara passed away in her age of 85

中国 2018330


国内、そして世界をまわり「ヒロシマの証言(Testimony of Hiroshima)」を続けてきた松原美代子さんが210日に広島市南区の自宅にて死去。85歳。

松原さんは194586日、爆心地から約1.6~7キロ、鶴見橋近くでの建物疎開作業で被爆し、やけどを負った。
支援で1952年に植皮手術などを受け「原爆乙女」とも呼ばれた。

バーバラ・レイノルズが1962年に行った平和巡礼に参加し、米ソをはじめ14か国で被爆体験を証言した。

市が1967年に設けた広島平和文化センターの職員に採用される。
修学旅行生への「被爆証言」に取り組んだ
全米で29都市にて、核廃絶をも訴えた。

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「あのときに命ながらえた私は、亡くなられた人たちのためにも生き続けて『ヒロシマ』を代弁しなければならない」そう、50歳の時に書いた。

194586日、広島女子商1年生だった松原さんは、建物疎開作業中の鶴見橋近くで原爆を受けた。
爆心地から約1.6~7キロ(1 mile)、現場にいた2年生と共に死者239人。

原爆症を初めて診断した東京帝大の都築正男が率いた「原子爆弾災害調査事項」(1029に付)には、松原さんの被爆状況も記録されている。全身の30%にやけどを負った。

回復しても左まぶたは閉じられず、右ひじや両小指は伸ばせなかった。
原爆乙女の治療に選ばれ、20才の年に大阪で計10回の手術を受ける。
退院後は広島市内の視覚障害者施設で働き、原水爆禁止運動の高まりから1956年に制作された記録映画「生きていてよかった」にも取り上げられた。

自らの意志で進んで語るようになったのは、バーバラ・レイノルズとの出会いと励ましからだろう。
米国が設けた原爆傷害調査委員会(ABCC=現放影研)に夫が赴任した、クエーカー教徒のバーバラは被爆者の苦難に向きあい、ヒロシマを世界に伝える平和巡礼を1962年に資材を投じて実現させた。

松原さんはバーバラと3人で米英仏ソなど14か国を回った。
1964年にも参加。
さらに東西両陣営の核軍拡が激しくなった1982年、米大陸を横断して各地でも証言した。
Barbara Reynolds’ Hiroshima memorial




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