青い地球を見たユング
Jung watched the whole Earth in his dream
Jung watched the whole Earth in his dream
私は宇宙の高みに登っていると思っていた。
はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と初大陸がみえていた。
脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方にはインド半島があった。
私の視野のなかに地球全体ははいらなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光りに照らし出されて、銀色の光に輝いていた。
ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。
(このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読んで私は驚いた。
それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。
これが現代の記述なら私も驚かない。
我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。
しかし、ユングはこれを、アポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。
ガガーリンが宇宙から地球をみて、
「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかった。
しかもユングは、ガガーリンが見た位地(181~327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写している。 (「臨死体験」 立花隆)
しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きを変えて、インド洋を背にして立った。
視野の中に新しい何かが入ってきた。
ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒な大きい石の塊であり、宇宙空間に漂っていた。私も宇宙に漂っていた。
宇宙空間で出会った黒い大きな石の塊は、その中がくりぬかれて、ヒンズー教の礼拝堂になっていた。
その中にユングは入っていく。
私が岩の入り口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。
つまり、私はすべてが脱落していくのを感じた。
私が目標としたもの、希望としたもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。
この過程はきわめて苦痛であった。
しかし、残ったものもいくらかはあった。
それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。
それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。
いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事から成り立っていた。
私は私自身の歴史の上に成り立っているということを強く感じた。
これこそが「私」なのだ。
私は存在したもの、成就したものの束である。
「臨死体験」立花隆より
【The DNA of the Soul】
Decades before the discovery of DNA, Carl Jung used a DNA-like metaphor to describe how the master plan for “the Self” is contained in our unconscious.
【地底へおりていって、「ファルロス」を見(4歳)、最後に「生け花」を見たユングの夢(4歳)】
地底の世界へと降りて行き、王座に座っている木の幹かと思うほどの肉の塊(かたまり)を見る。
扉が少し開いており、中へはいった。
「臨死体験」立花隆より
【The DNA of the Soul】
Decades before the discovery of DNA, Carl Jung used a DNA-like metaphor to describe how the master plan for “the Self” is contained in our unconscious.
Jung’s concept of the unconscious emphasized its wisdom, not its irrationality.
The unconscious, far from being merely an empty slate, a cesspool of blind primordial energies, or of repressed contents of the ego, actually has hidden within it an instinctual intelligence that contains in its blueprint a whole series of built in behavior patterns that when activated will result in our entire future psychological development in the same manner that DNA contains a blueprint of our entire biological development.
For each person, the blueprint is different.
Everyone has two eyes, two ears, a nose, and a mouth, though, there are no two faces exactly alike.
Though the DNA is a common denominator to us all, to billions of us, it still manages to create each single human being as a unique….individual.
So too, the psychic DNA, “the Self”, though common to the human species, contain a blueprint for each personality that is unique and special to that individual.
Jung liked to refer to person’s blueprint as his or her “individual mythology”.
DNAが発見される何十年も前に、カール・ユングは、無意識の中に事故のマスタープランが存在することを説明するため、DNAに似た比喩を使っている。
ユングの説く「無意識」の概念は、その不合理性よりも、その智慧のほうが強調されている。
無意識とは、何も書かれていない石版ではない。盲目的、原始的なエネルギーや、抑圧されたエゴのたまり場でもない。無意識は本能的な知性を秘めている。その青写真には、先天的な行動パターンがいくつも含まれており、それがその人の将来の心理発達を決定する。この青写真は人によって、みな違う。
人間はみな目が二つと耳が二つ、鼻と口が一つずつあるが、まったく同じ顔はない
DNAはすべての人、何十億人がみな共通に持っているものだけど、しかしそれでもDNAは各自を他とは違う独自の個性を持つ人間に仕立て上げている。
同様に、精神的DNA、つまり「自己」は、人類すべてが持っているが、その青写真はそれぞれその人だけのユニークなものだ。行動パターンが似ていることはあっても、個人の人格的青写真に同じものはない。
ユングは、人間の青写真を、その人独自の「神話」と呼んだ。
【地底へおりていって、「ファルロス」を見(4歳)、最後に「生け花」を見たユングの夢(4歳)】
地底の世界へと降りて行き、王座に座っている木の幹かと思うほどの肉の塊(かたまり)を見る。
「それは、人食いですよ」という母の声を聞く。
恐ろしさで、死なんばかりになって目ざめた。
(後年)
ユングは、西洋におけるキリスト教文化の一面性に気づき、彼の見た地底のファルロスは、肉体や情動性を表すものとして、ディオニソス的意味を持ったものであることを了解する。
「光に包まれたキリスト像」に対して、
4歳の時にみた「ファルロス」「地底に君臨するカミの像」を突きつけられたとき、ユングはどうかんがえてよいかわからなかった。
結局、「劇の結末」を見るために、ユングの生涯があったといっていい。
「私はハイキングをしていた。私は岡のある景色の中の小道を歩いていた。太陽は輝き、四方を見渡せる光景が開けた。
扉が少し開いており、中へはいった。
驚いいたことに、祭壇には、マリアの像も、十字架の像もなく、
素晴らしい生け花があるだけだった。
祭壇のその前の、その花の上に、一人の結跏趺坐ヨガ行者がこちらをむいて、深い瞑想にふけっていた。
彼の顔をよく見ると、彼は私の顔をしている結跏趺坐だった。」
私は、深い恐怖におそわれ、目ざめて考えた。
「ああ、彼が私を瞑想している人だ。彼は夢を見、私はその夢だ。」
もし彼が目ざめたら、私は存在しなくなっているだろうと、私は知っていた。
ふたつの文化の臨死体験をした「毛利さん」
はじめの二つの(臨死)体験は、どちらも気持ちがよいものだった。
解放感があり、安らかで、ゆったりとしていて、恍惚感があった。
だから、あのまま死んでいけるんだったら、死ぬことは実に楽なことではないか、と思っていた。
次の臨死体験まで、どこか「たかをくくった」気持ちをもっていた。
(けれども)次の臨死体験は全くことなっていた。
私は白い服を着たお遍路さんになっていた。
どこか知らないけど、みんなで歩いている。
曲がり角にろうそくがたっているので、みんなで拝んだ。
そして、自分の病室に帰っていくが、そこが百畳くらいのたたみになっている。
そこでみんなで会食をしている。
病院の職員たちもまじっている。
別に人とははなしもせず、一人へり、ふたりと減っていく。
灯りも消えていくけど、私のところだけは、スポットライドが当たっているように明るい。
ああ、さみしいな。孤独だな、と思う。
そうすると、天井から大きな角材を組んだものがおりてき、
その下敷きになって、押しつぶされそうになる。
ふと見ると、自分がキリストの姿になっているんです。
キリストがはりつけになるまえに、十字架をかついでずっと歩かされるでしょう。
あれと同じ姿になっているんです。
これを体験しながら、これと似たことが前にもあったなという気がした。
後で気が付くことなのだが、そのキリストの姿というのは、自宅にあったホルバインの画集の中にあった木版画と同じ構図であった。
以前、この版画をみて、人間の死についていろいろ考えていた時、
お釈迦さまは、涅槃で極楽往生だったのに、キリストは一人で十字架を背負わされてはりつけになったんだなと、以前すごく印象に残っていたのです。
それが、出てきたと思うんです。
(「臨死体験 立花隆(上)p161」より)
Nuclear and the Humankind cannot Co-exist / Nuclear Victims Forum / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden
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