「核実験」ー被害隠しに光を」ー
中国新聞 2017年3月8日
「息子は2度被曝しました」
長崎原爆による「被爆」と、ビキニ水爆実験による「被曝」の二十苦から、27歳で自殺した青年がいた。
1954年3月~5月、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験。
船員23人が被曝した静岡県焼津市のマグロ漁船「第5福竜丸」の悲劇は世界に衝撃を与えた。
しかし、その青年が乗っていたのは高知のマグロ漁船という。
85年春、高知県宿毛市の高校社会科を教えていた山下さんは、県西部で平和学習を行うゼミの顧問もしていた。
その年の課題は、広島・長崎への原爆投下40年。
有志の高校生とともに、地域の被曝者を調べる過程で、次男節弥さんを2度の核被害で亡くした藤井馬さんと出会う。
節弥さんは45年8月9日、長崎で馬さん、姉と被爆。
その後、馬さんの故郷、宿毛市に戻り、家計を支えようと乗り込んだ漁船で複数回、水爆実験に遭遇したとみられる。
「第5福竜丸以外の船が被曝?」
その結果「きのこ雲を見た」「白い灰を浴びた」など数々の証言とともに、ビキニ周辺で操業した元船員が若い年齢でガンを患ったり、早世したりしていることが次第に明らかになってきた。
「これほどの被害がありながら、なぜ国は何もしていないのか」
ビキニ実験後の54年3~12月、日本政府が周辺にいた船を対象に実施した放射能検査により、東京など18港で800隻を超える船が500トン近い汚染魚を廃棄した。
その約3分の1が高知船籍と言われる。
「僕は猟師の生まれだから」
胸中には、猟師への思いがある。
山下さんの両親は、宿毛市片島と大分県佐伯市を結ぶフェリー乗り場近くで雑貨店を営んでいた。
山下さんが幼いころ、マグロ漁船の猟師が出港前によく駄菓子をまとめ買いに来た。
「猟師には、ほんとうにかわいがってもらった」と笑みをこぼす。
だからこそ、ビキニ実験後、彼らに起きた異変を覚えている。
首元に突然大きなこぶができた人、声が出なくなった人、「子供ながらに、これはおかしいと思った。
その答えを、山下さんは教師になり自身の調査で見つけることに。
85年当初から、山下さんと活動を共にしてきた、高知県四万十の元教師、上岡橋平さん(67)は「八方ふさがりになっても、山下さんから『これ以上の調査は止めよう』なんて言葉は聞いたことがない。」と振り返る。
高校生との調査が一段落した後も、山下さんはほぼ一人で聞き取りを続けていた。
「怒りでしょうね。こんなことは絶対許せないという憤り。その想いが人の何倍も強い。」
「怒りでしょうね。こんなことは絶対許せないという憤り。その想いが人の何倍も強い。」
山下さんや報道機関の度重なる求めに応じて、厚生労働省が述べ556隻分の被曝を裏付ける資料を開示したのは2014年9月。
実験から60年もの歳月が流れていた。
この間、多くの元船員が亡くなったが、偏見を恐れ、何も語らず世を去ったものも少なくない。
「知る権利とか、生存権とか、国が守るべき権利を、むしろ国が妨害した。棄民にしたんです。」
ようやく手にした証拠の数々。
元船員や遺族ら45人は16年5月、被曝に関する証拠資料を政府が開示しなかった結果、米国への賠償請求の機会を奪われたなどとして、ビキニ実験を巡っては初の国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。
「放射能さえ浴びなければ・・」
「働き盛りのころ、治療費で生活は苦しかった。しんどかった気持ちを国にわかってほしい。」と訴える。
山下さんも、国が度重なる開示請求に資料を隠し続け、精神的損害を受けたとして、原告に加わった。
16年7月1日の第一回口頭弁論では「国による核被害隠しに光を当てる司法判断をお願いししたい」と意見陳述した。
10月13日の第2回口頭弁論。
1986年に、政府が第5福竜丸以外の船の被曝について「資料は見つからない」と国会で答弁したことを巡り、国側は当時情報公開法もなく、知る権利は「抽象的な権利」と主張した。
原告側は「当時も公文書閲覧窓口の制度があった」と反論。
今後も国が故意に資料を隠してきたことの立証を続ける。
「奪われたマグロ漁民の尊厳を取り戻したい」と山下さん。
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