Sunday, June 24, 2018


                             平和の詩           
沖縄県浦添市立港川中学校3年 相良倫子さん(14)
音声Voice



激しい地上戦を生き抜いた曾祖母の体験から、「平和とは当たり前に生き、命を精一杯輝かせて生きること」と考え、紡いだという詩には「生きる」と名付けた。

「生きる」

私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、心地よい湿気をからんだ風を全身に受け、
草のにおいを鼻孔に感じ、遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている
私の生きるこの島は、何と美しい島だろう。

青く輝く海、岩に打ち寄せしぶきをあげて光る波、ヤギのいななき、小川のせせらぎ、畑に続く小道、萌え出づる山の緑、優しい三味線の響き、照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、島を感じる。
心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を生きている。
この瞬間の素晴らしさが、この瞬間の愛おしさが、今という安らぎとなり、
私の中に広がりゆく。
たまらなくこみ上げるこの気持ちを、どう表現しよう。

大切な今よ、かけがえのない今よ、私の生きるこの、今よ。

73年前、私の愛する島が死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三味線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、ひかり輝いていた海の水面は、戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、燃えつくされた民家、火薬の臭い。

着弾に揺れる大地。地に染まった海。魑魅魍魎のごとく、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな生きていたのだ。
私と何も変わらない、懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。

日々の小さな幸せを喜んだ。
手を取り合って生きてきた、私と同じ、人間だった。

それなのに。壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無こうの命を。

当たり前に生きていた、あの日々を。

魔文仁の丘。
眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、この島のすべて。

私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に思いを馳せて。心から誓う。

私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を
絶対許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないことを。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を超えて、
平和である世界を目指すことを。

生きること、命を大切にできる権利を、誰からも侵されない世界を創ることを。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも感じるだろう。この島の美しさを。
あなたも知っているだろう。この島の悲しみを。
そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっと分かるはずなんだ。
戦争の無意味さを。
本当の平和を。
戦力という愚かな力を持つことで得られる平和など、本当はないことを。

平和とは当たり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に

平和を想って。
平和を祈って。

なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、全ての命。
私とともに今を生きる私の友、私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発信しよう。

一人一人が立ち上がってみんなで未来を歩んでいこう。

魔文仁の丘の風に吹かれ私の命が鳴っている。
過去と現在。
未来の共鳴。

鎮魂歌よ、届け。
悲しみの過去に。

命よ響け。
生きゆく未来に。

私は、今を生きていく。





沖縄慰霊の日 翁長県知事「平和宣言」
Okinawa Peace Declaration by Pr.Governor Onaga



二十数万人の尊い命(いのち)を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、
73年目となる623日を迎えました。

私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命(いのち)の尊さという教訓を学び平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日を生きています。

戦後、焼野原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、復興と発展の道を力強く歩んできました。

しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0.6%にすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70.3%が存在しつづけており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題に苦しみ、悩まされ続けています。

昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど、緊張緩和に向けた動きがはじまっています。

平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策といえるのでしょうか。
日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。

民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるをえず、全く容認できるものではありません。

「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからも微塵もゆらぐことはありません。

これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきたとおり、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。

国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯(しんし)に考えていただきたいと願っています。

東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では地域紛争やテロなどにより、人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積みしています。

世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。

かつて沖縄は「万国津梁(しんりょう)」の精神の元、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。

そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆(つな)ぐことができる素地ができており、日本とアジアの架け橋としての役割を担うことが期待されています。

その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。

本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げるとともに、恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、未来を担う子や孫が心穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。





平成30年(2018年)623
沖縄県知事 翁長雄志


平和の詩「生きる」
音声Voice
  【沖縄戦】
太平洋戦争末期、1945326日から623日に至るまで、沖縄は日本国内唯一の「地上戦」の舞台となった。
3か月、日本軍人94千人、沖縄住民94千人、米軍1万2千人が戦死するという、世界の戦争史でも、最も激烈な戦闘であった。

その死者の数については、いまだ、一人一人が、一つの岩かげで、草かげで何が起こったかは、語りつくされていない。
そしてその体験は、近代国家の軍隊は人間とその生活を守るものではなかったことを、沖縄の人々に焼き付けた。

沖縄の祖国復帰運動が盛り上がるころ、日本本土では70年安保闘争のあとの虚脱からか、平和憲法の空洞化が言われ、平和思想を沖縄の復帰運動に学ぼうということがしきりにいわれた時期があった。
戦争を経験し、平和願望をようやく思想化し、遅ればせながら平和憲法のもとに帰ろうとした沖縄県民と、大事な平和憲法を空洞化の危機にさらさせていた日本本土の思想の落差に、「近代化」ということの意味の深淵がのぞく。

戦争の無意味さを皮膚感覚として身につけた沖縄の人々にとって、
「昔から平和であった沖縄の、この美しい空の下で、この青い海の上で、戦争につながる一切のものを拒否する『24万の生霊』の血がしみたこの島を、平和を築く原点としたい。」との想いは切実である。(ひめゆりの塔をめぐる人々の手記)



former pre.gov.Onaga's son(Takeharu.O) is  an active politician as well
Nuclear and the Humankind cannot Co-exist Nuclear Victims Forum  / 竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden                 

Thursday, June 7, 2018

Ave Maria
「原爆で死んだ級友たち」より
My Classmates who died in A-bombing (more..)

浅尾宣子の姉は、12日に死んだことになっている。
なっている、というのは、兄秀夫が軍隊から帰り、己斐小学校にいったとき、保管された骨にそう記されていたからである。
“Nobuko's elder sister has died on August 12th.”
Nobuko's elder brother Hideo received a cremation urn at Koi-elementary school.
Only 'her name and her death date' was recorded on that urn.

宣子の家は、福島町の理髪店(爆心から1.7キロ)。
兄の秀夫は当時30歳で、家業を手伝っていたが、19451月に招集され、大阪にいた。
終戦になっても、兵隊はすぐには復員できなかったが、幸いなことに秀夫の部隊長は、いい人だった。
広島は大変らしいから、広島出身のものだけ早く帰してくれたのである。
Nobuko and Hideo’s home was running barbershop in Fukushima-cho, 1.7km away from H.C.
Hideo was 30 years old, and called up to military in January 1945, so he was in Osaka at that time.
Even after the War, many soldiers couldn’t go home immediately, but fortunately the leader of Hideo’s group was generous person. He told Hideo and other soldiers from Hiroshima,
“I’ve heard Hiroshima town was very serious. All of you should go home.”


満員の汽車になんとか乗って、広島までたどりついたが、見渡す限りの焼野原。
どうしていいかわからない。
疲れ切って猿こう橋のたもとに座り込んでいたとき、ばったりと母に会った。
「ウソのようじゃったよ。」と秀夫はそのときの喜びと驚きをいう。
So Hideo got on a very crowded train and arrived at Hiroshima.
He was very surprised to see the scene that Hiroshima town was totally burned out..

Hideo was really exhausted, but had no idea what he could do at that time.
When Hideo was sitting down at the bottom of Enko bridge, coincidently he saw his mother’s figure…
I never believe what I’ve seen. My mother was exactly right there.” 

「みな死んで、ひとりぼっちになった。」と、母は茫然と秀夫に言った。
“Everyone has been dead. I’m totally alone.” mother said to Hideo absented mindly.

原爆が落ちたとき、店にいた父と客二人が倒された家の下敷きとなり即死。
まもなく火がせまって全焼。
母はたまたま家の外におり、爆風に吹き飛ばされ、家の壁に押し付けられたようになり、身体は痛めたが火傷はしなかった。
According to her,
“When the bomb dropped, my father and two of his guests were perished at once.
Soon the fire come closer and our house was also totally burned out immediately.”
My mother was just outside, flown away, pushed and crashed against a wall.
Koi(己斐)elementary school

母は己斐小学校に逃げた。
ここで宣子の姉と出会う。大やけどでもう動くこともできない。
宣子の姉は母にみとられ17日に死んだ。
My mother run away to Koi elementary school.
There she saw Nobuko’s elder sister.
Her body was totally burned and couldn’t move at all.
She has died on 17th, while our mother was taking care of.”
the School Entrance 1951



母にあった秀夫は、学校へ行き、先生の一人にあった。
「先生のひとりが、お母さん代わりになり、お母さんが来たよ、お母さんが来たよ、というたら、宣子は『お母さん・・』、といいながら死んだそうです。涙がでてね・・。」(秀夫)
Listening to what his mother said, Hideo decided to go to Koi elementary school, and talked with one of teachers there.

 According to her,
“While a teacher was taking care of Nobuko, our mother come to Koi elementary school.  then Nobuko cried loudly, ‘Mother! Mother!..’ and soon she passed away.”
While listening to that teacher’s story, Hideo also cried all together.

19459月17日、広島は「枕崎台風」におそわれ、町にダブルパンチを与えた。
太田川は、上流のいたるところで氾濫し、流木が流れた。
「その木を拾うて、焼けトタンも拾うて、バラックを建てたんよ・・。」
その間も、母は原爆症で苦しみ、7年後(1952)に死亡した。
On Sep.17, 1945, Makurazaki(枕崎)typhoon attacked that town so it was the second big disaster for Hiroshima.
That huge twisters-and-tornado caused big flood upsides of Ota-river(太田川).
Hideo said,
“Many twigs, logs, woods, and boards were also flashed and floating in the rivers. So we made our barracks by using them. But my mother suffered from illness caused by radiation and has passed away in 1952.”




1952年 バラックに囲まれた原爆ドーム周辺のようす
いまも秀夫の理髪店は、福島町の昔の場所にある。
Still now, Hideo’s barbershop is in Fukushima-cho.(1985)

私は、1年生の時に撮ったクラス写真を複写したので、必要な方は申し込んでほしいとクラスメート関係者に手紙を出していた。
かなりの注文が来たが、秀夫からは何の返事も来なかった。
私は、だまって秀夫に写真を送った。それにも返事はなかった。
I have a photo of my classmates before A-bombing, so I sent letters to survived classmates and people related, asking whether or not, you want the photocopy. Many answered “yes!”, so I sent them.
But there was no response from Hideo.
So, I sent Hideo one photocopy by myself without asking.
Again there was no response from him.

それから数年後の86日、私は前触れなしに秀夫を訪ねた。
理髪店は閉まっていたが、思い切って戸を叩くと、初老という感じの秀夫が顔を出し、目を丸くして、店内にいれてくれた。
椅子がふたつほど並べられるくらいだけの小さな店だった。
After few years, I visited his barbershop on August 6th without any appointment.
His barbershop was closed, however, I saw Hideo’s figure through a window, so I knocked the door a little bit loudly.
Then Hideo also noticed. He invited me inside his barbershop.
It was a tiny place for just several chairs and persons.

「あんた、よう来たねえ。あれから、あんまりつらいことばかりじゃけん、わしは、いっさい思い出さんようにしとるんじゃ。じゃが、忘れてしまってはもうしわけないけえ、この日だけは、思い出すことにしとるんじゃ・・・。」
Hideo said,
“How come you are here! I never thought you would come.”
“For me, A-bombed experience was so hard that I tried to forget all of them. But if I forget all of them, it is too sorry for all the dead. So I remind of them only on August 6th…”

私は言葉を失った。
写真を送ったりしてよかったのだろうか・・・。
Listening to his words, I lost my words, thinking about photocopy…
‘Was that right for him?’

「大変だったでしょうね・・。」
「ここまで来るまで、どれだけえらかったか、はあ思い出したくないくらいよ・・。」
“You must have hard time…”(me)
“Yeah..too hard..I never want to remind of that…”(Hideo)

「宣子さんはよくできたから・。」
「いやあ・・そんな大したことは・・」
“Nobuko-san was a good and smart student..”(me)
“Not so much….”(Hideo)

言い淀みながら、秀夫はふと夢見るような目になった。
「宣子は先生になりたくての、いつもそういうとった。弟がおったんじゃが、これが復員してから、宣子のかわりに自分が夢をはたしてやる、いうて、勉強しなおして、中学の先生になったんじゃ。その弟も8年前に病気で死んでしもうたが・・。」
Hideo’s eyes watched in the air toward far distance like dreaming.
“Nobuko wanted to become a teacher. She was always saying that. She had a younger brother. He come back from the War. He said he would be a teacher instead of Nobuko and actually he become a teacher. But he also died 8 years ago due to illness….”

勉強が好きで、成績がよかった末っ子は、一家の希望の光だったのではなかろうか・・。
I thought, “Nobuko’s younger brother must be the light for Hideo…”

辞意を告げると、
仏さんに線光をあげてやってつかあさい、と秀雄が言いだした。
小さな部屋があり、隅に小さな仏壇があった。
When I tried to leave, Hideo stopped me,
“Please pray for Nobuko and other dead people.”
There was another small room and tiny Buddhist alter.

線光に火をつけ、拝んでから、目をこらすと、位牌の奥に、一枚の写真が、むきだしのまま置いてあった。あのクラス写真だった。
I prayed for them and watched inside the alter.
I found the photocopy of my classmates!

「あんたに写真を送ってもらったけぇ、毎日拝んどるんよ。」と秀夫がいった。
“You are really kind for me to send this photo. So I pray every day for Nobuko and others…”

私は救われた気持ちになった。
I was really relieved.

それ以来、毎年正月には、秀夫から年賀状が来るようになった。
Since then, every year, Hideo sends me ‘New Year Card’.

文面はいつも「謹賀新年」だけである。
On his card, there are just only simple letters,”謹賀新年”.

この年賀状をよく見ると、表にも裏にも、何本かの線が、定規をつかってまっすぐにひいてあり、その線の上に、住所も名前も文面も、几帳面な楷書で書いてある。
But once when I watched the card carefully, I could find out unclear lines that showed he wrote every single letter by using a ruler.

ひとつのくずしもない教科書のようなその字に、秀夫の心情と思いを見る。
I saw Hideo’s very tidy and honest character on that card.

(あとがき:Afterwords

学徒動員にかりだされて、級友たちは絶滅した。
Having worked as mobilized students, almost all my classmates have died in A-bombing.

当日、体調不良で欠席し「死」をまぬがれた。
On that day, being absent because of my bad body condition, I did not die.

40年後、一人一人の遺族や関係者を訪ね歩き、クラス全員の姿を確かめていった。
40 years after that day, I asked and visited the bereaved and related people of all my classmates.

「辛すぎて話したくない気持ち」「その後の40年の苦しみ」も含め、
Including “Experiences too hard to talk.” “Too serious sufferings for 40 years”,even though

同じクラスで、机を並べてきた人々の事を書く以上、その一人一人を人間として書きたかった。
I want to write about them as much as in details as humankind one by one.
Because they are my classmates who have studied together, gone through 'the too much hardship' and are still now living in my heart. (more...)


Nuclear and the Humankind cannot Co-exist /竜安寺石庭 Ryoan Temple Stones Garden / Ave Maria



Sunday, June 3, 2018


「核なき世界を求めて」


普天間返還という「起爆剤」を提案したのは19962月末に米サンタモニカで行われた日米首脳会談の直前と記憶している。


一方、日本では橋本首相がこの首脳会談の1か月前に前任の村山首相の後をついで、総理大臣になったばかりだった。

にも関わらず、日米両首脳はサンタモニカでの初顔合わせで「普天間返還」という難しい政治問題の解決をめざし、呼吸の探り合いを演じている


首相は日米同盟体制に対する日本国民の理解を得るためにも、沖縄米軍基地の整理・統合・縮小を要請。具体的な沖縄県の要望として、普天間の返還を掲げたのである。


この問題について、最終的に我々が目指した「最善」の解決策は、それまで多くの関係者が必至で考え抜いた末のものであり、多くの議論の結果うまれたものだ。

だから、日本で民主党政権が誕生した際、この合意を破棄するかのような言葉を、時の総理大臣が発したときには正直、とてもがっかりした。

日本の新しい首相が普天間の移設先として、「最低でも県外、できれば国外」と発言したことについて、それを「裏切り行為」とまで呼ぶつもりはない。

ただ、その合意を後押しした当事者として、とても大きな絶望感を覚え、落胆したことだけは付け加えたい。


Former US Secretary of Defense, W.J.Perry joined Hiroshima Nagasaki Zero Project (2017)


【考】
第二次世界大戦における文脈で、「広島・長崎」と「沖縄本土上陸決戦」には、大規模戦争時にみられる「決死」という集団心理状況がゆえに起こってしまう多くの共通項が見られる。

特に日本側は、「滅亡しても(一億総玉砕しても)、勝利する!」という「文脈破綻」を,「文脈破綻」していることにも気がづかず、個々の多くのものたちがその言葉を口にして死んでいっている。

それを「煽っていた」ものは何なのか?

世界の歴史の中でも、「(最も最近の)世界大戦下」で起きた、(且つ)最も大規模であった「日米間で起きた決死戦」。

「広島・長崎」と「沖縄」における「(異常な)心理的敵対関係」を、双方が、「センセイショナルに煽られる『戦争』という形ではなく、


Tell & Show 'what was that like',
it is survivors obligation
泉:Fountain)


有無をいわされず動員された「個々の人間」に起こったことを、

言葉にならないままほっておくのでもなく、

「個々の人間」が見、経験し、
そして生き延びたことを

『表現、文章化(文化・culture)』
することにより、

「起こったことが、個の『人間』にとって、
いったい何だったのか、

どうしたら双方が癒されるのか、

時間をかけ、腑に落とし、超えていく」ことが、
「世界の『人道』をふまえた和解(reconciliation & peace)」にも通じ、非常に重要と思う。