Tuesday, March 21, 2017

肥田舜太郎医師 死去 100
被団協顧問 被爆者治療に尽力
Dr. Hida passed away.
In his age of 100, on March 20th(spring equinox) 2017,
after uncountable endeavors to  assist Hibakusha
                                  

中国新聞 2017321

広島で自らも被爆し、被爆者の治療を続けてきた医師で、日本被団協顧問の肥田舜太郎氏が20日午前82分、肺炎のため埼玉県川口市の埼玉協同病院で死去した。

100歳。岐阜出身。

194586日の原爆投下当時、軍医として広島に赴任しており、爆心地の北約6キロ地点にいた。

その直後に市内に入り、焼けただれてさまよう人らを救助するとともに、治療に当たった。

その後も、白血病などの後遺症に苦しむ被爆者たちにも寄り添い続けたほか、内部被ばくによって体がだるくなる症状を「ぶらぶら病」と呼び、危険性を指摘した。

「広島と長崎は今も生き地獄を見せて世界に警告している。真実を伝えるのが被爆者の使命だ」として、1975年に初めて原爆を投下した米国を訪問。

1989年までの15年間で30か国以上、150都市以上を
「草の根の反核語り部」として駆け巡り、原爆の悲惨さを訴えた。

原爆症認定訴訟では、原爆投下後に広島・長崎市内に入った被爆者について、ほこりなどを吸い、体内に入る放射性物質による内部被ばくの影響について証言をした。

2011年発生した東日本大震災による東京電力福島第一原発事故でも内部被ばくの脅威を訴えた。

2013年に都内で脱原発を求める集会に参加するなど、被ばく者治療の傍ら、核廃絶を求める発言を続けた。

元軍医で被ばく者医療に尽力してきた肥田舜太郎さんの訃報が伝えられた20日、ゆかりの人たちに悲しみが広がった。

「被ばく者支援に関わるものにとって精神的な支えだった。」

原爆症認定訴訟の支援を通じて十数年の親交がある広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の大越和郎事務局長(76)は残念がった。
「肥田さんは2009年に一線を退くまで約6000人の診察に当たったという。常に被爆者の立場に立つ人だった。もっと教わることがあったはずなのに」

日本被団協の田中てるみ事務局長(84・埼玉県新座市)は、1月にあった肥田さんの100歳を祝う会合に出席したという。
「すごくお元気で大変喜んでおられた。『100歳は通過点』とも言っていた。」と振り返る。

もう一つの広島県被団協(坪井直理事長)の、ちまき智之副理事長(75)は、「核兵器禁止条約」の制定交渉会議が27日から国連で始まることに触れ、

「ご経験を基に『核と人間は共存できない』と長年、訴えてこられた。まだまだ私たちに助言してほしかった」と語った。

322日 「天風録」)
体調が悪く苦しいのに人にわかってもらえなければ、誰しもつらい。
心まで病むかもしれない。
被爆者の中にも、だるくて動けない人々がいた。
原爆投下から何年も経ち、直接ピカにあっていない人まで・・。
「ぶらぶら病」。
誰とはなしにそう呼んだ。
怠け者扱いは悔しかったろう。
苦しみに心寄せたのが医師、肥田舜太郎さん。
自身も広島で被爆したあの日から被爆者の治療や救済に尽くし、100歳で亡くなる。
被爆直後、なすすべもなく大勢をみとった。
ぶらぶら病も原因さえわからない。
ある患者は診察中に頬杖をつき、やがて床に座り、しまいには横になった。
異常ではない「だるさ」と知るが治療法もない。
寄り添うしかなかった。
原爆投下後に入市して吸い込んだほこりによる内部被ばくが原因と知ったのは30年後。
放射性物質が長く体をむしばむのだ。
以来、欧米30か国以上を行脚して核廃絶を訴えた。
「誰も放射線をコントロールできない」と。

福島第一原発事故の発生時には94歳。
ぶらぶら病の発症を心配して、最晩年まで老いた身に鞭打って各地で訴え続けた。

「原子力は人間が扱える代物ではない」

遺言としてかみしめたい。

Wednesday, March 8, 2017

「核実験」ー被害隠しに光を」ー

中国新聞  201738

「息子は2度被曝しました」
長崎原爆による「被爆」と、ビキニ水爆実験による「被曝」の二十苦から、27歳で自殺した青年がいた。

19543~5月、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った水爆実験。
船員23人が被曝した静岡県焼津市のマグロ漁船「第5福竜丸」の悲劇は世界に衝撃を与えた。

しかし、その青年が乗っていたのは高知のマグロ漁船という。
青年の母親の証言が、元教師山下正寿さん(72)のビキニ被曝を巡る、長い闘いの始まりだった。

85年春、高知県宿毛市の高校社会科を教えていた山下さんは、県西部で平和学習を行うゼミの顧問もしていた。

その年の課題は、広島・長崎への原爆投下40年。
有志の高校生とともに、地域の被曝者を調べる過程で、次男節弥さんを2度の核被害で亡くした藤井馬さんと出会う。

節弥さんは4589日、長崎で馬さん、姉と被爆。
その後、馬さんの故郷、宿毛市に戻り、家計を支えようと乗り込んだ漁船で複数回、水爆実験に遭遇したとみられる。

「第5福竜丸以外の船が被曝?」
衝撃を受けた山下さんと高校生はその後5年間で、元船員約240人に聞き取り調査を実施する。

その結果「きのこ雲を見た」「白い灰を浴びた」など数々の証言とともに、ビキニ周辺で操業した元船員が若い年齢でガンを患ったり、早世したりしていることが次第に明らかになってきた。
「これほどの被害がありながら、なぜ国は何もしていないのか」

ビキニ実験後の543~12月、日本政府が周辺にいた船を対象に実施した放射能検査により、東京など18港で800隻を超える船が500トン近い汚染魚を廃棄した。
その約3分の1が高知船籍と言われる。

32年間、ほとんど手弁当で調査を続けてきた山下さん。
「僕は猟師の生まれだから」
胸中には、猟師への思いがある。

山下さんの両親は、宿毛市片島と大分県佐伯市を結ぶフェリー乗り場近くで雑貨店を営んでいた。
山下さんが幼いころ、マグロ漁船の猟師が出港前によく駄菓子をまとめ買いに来た。
「猟師には、ほんとうにかわいがってもらった」と笑みをこぼす。

だからこそ、ビキニ実験後、彼らに起きた異変を覚えている。
首元に突然大きなこぶができた人、声が出なくなった人、「子供ながらに、これはおかしいと思った。
その答えを、山下さんは教師になり自身の調査で見つけることに。

85年当初から、山下さんと活動を共にしてきた、高知県四万十の元教師、上岡橋平さん(67)は「八方ふさがりになっても、山下さんから『これ以上の調査は止めよう』なんて言葉は聞いたことがない。」と振り返る。

高校生との調査が一段落した後も、山下さんはほぼ一人で聞き取りを続けていた。
「怒りでしょうね。こんなことは絶対許せないという憤り。その想いが人の何倍も強い。」

山下さんや報道機関の度重なる求めに応じて、厚生労働省が述べ556隻分の被曝を裏付ける資料を開示したのは20149月。
実験から60年もの歳月が流れていた。

この間、多くの元船員が亡くなったが、偏見を恐れ、何も語らず世を去ったものも少なくない。

「知る権利とか、生存権とか、国が守るべき権利を、むしろ国が妨害した。棄民にしたんです。」
ようやく手にした証拠の数々。

元船員や遺族ら45人は165月、被曝に関する証拠資料を政府が開示しなかった結果、米国への賠償請求の機会を奪われたなどとして、ビキニ実験を巡っては初の国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。

「放射能さえ浴びなければ・・」

原告の一人、高知県土佐清水市の元船員谷脇寿和さん(82)は30代で肝臓を悪くし、15年には肝臓と胃のがんで手術を受けた。
「働き盛りのころ、治療費で生活は苦しかった。しんどかった気持ちを国にわかってほしい。」と訴える。

山下さんも、国が度重なる開示請求に資料を隠し続け、精神的損害を受けたとして、原告に加わった。
1671日の第一回口頭弁論では「国による核被害隠しに光を当てる司法判断をお願いししたい」と意見陳述した。

1013日の第2回口頭弁論。
1986年に、政府が第5福竜丸以外の船の被曝について「資料は見つからない」と国会で答弁したことを巡り、国側は当時情報公開法もなく、知る権利は「抽象的な権利」と主張した。

原告側は「当時も公文書閲覧窓口の制度があった」と反論。

今後も国が故意に資料を隠してきたことの立証を続ける。

「奪われたマグロ漁民の尊厳を取り戻したい」と山下さん。

これが最後のチャンスだと考えている。

山下氏TPNW実現訴え / A Co-incidental Destiny of Japanese Go-En /